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「ワークライフバランス」という言葉は誤り。正しくは「ライフバランス」

常々「ワークライフバランス」という言葉を聞くたびに軽い違和感を覚えてきた。それが何故なのかよく考えてみると、結論としては「ワーク」と「ライフ」が対峙していて、対等な位置関係にあることがおかしいからだ。

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本来、人間生活の全体が「ライフ」であって、その中の社会的活動の一つとして必要に応じ「ワーク」が存在しているのがあるべき姿。しかしながら「ワークライフバランス」が声高に唱えられる場面というのは、企業や組織が従業員の労働パフォーマンスを上げるための「策」としてあたかもワークとライフが同等の価値のように提示されている。そしてそこには「ライフも大切にして、ワークで貢献してね」という暗黙のメッセージが多分に含まれている。大きなお世話である(笑)

さて内閣府のホームページでワークライフバランスの定義をしているので確認してみる。
◆仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)憲章 より
「我が国の社会は、人々の働き方に関する意識や環境が社会経済構造の変化に必ずしも適応しきれず、仕事と生活が両立しにくい現実に直面している。誰もがやりがいや充実感を感じながら働き、仕事上の責任を果たす一方で、子育て・介護の時間や、家庭、地域、自己啓発等にかかる個人の時間を持てる健康で豊かな生活ができるよう、今こそ社会全体で仕事と生活の双方の調和の実現を希求していかなければならない。」冒頭より抜粋

この定義、解説自体に誤りが含まれている。まず「仕事と生活が両立しにくい現実」という理解の枠組みは、本音では「仕事『に』生活『を』合わせる」のだという努力目標が透けて見えている。「両立」ではなく本質的にはあくまで豊かで健康な生活を送ることが第一の目標であって、そのために必要な労働をその中にFITさせるという考え方こそが必要なのである。得てして「仕事と生活の両立」という意識でそれを目指すと、今週は特殊任務で仕事が忙しかったから家庭生活を犠牲にしました、という結論になりやすいし、それは仕方ないねという安易な結論で自己や周囲を納得させることになってしまい、結果的には何一つ前進していかない。

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また「やりがいや充実感を感じながら働き」にも大きな誤解がある。それは仕事にやりがいを求めることは必然では無いということ。無意識に仕事(ワーク)をイメージすると混同しがちなのだが、働く目的には大きく「生きて行くための生活費を稼ぐこと」と、「社会の一員として社会に貢献すること」の2つがある。前者を「かせぎ」、後者を「しごと」と表現し、一方家庭や地域での生活そのものを「くらし」と定義すると、「かせぎ・しごと・くらし」の3軸の重なりが見えてくる。この「ライフ」全体の中でどこに時間的な重きを置き、どこにやりがいや充実感を見出すかは人それぞれの価値観によるものである。だから、一面的に「仕事(かせぎ)にやりがいや充実感を見出す」ことは片目の議論になってしまうのだ。人によっては勤め先の仕事はあくまで稼ぎのためであってやりがいも充実感もいらない、だから定時に退社して時間を創る。一方で地域のコミュニティ活性化のためのNPO幹事メンバーとして休日を中心に人と人をつなげる場を作り、地域の課題解決に貢献することに「やりがいや充実感」を得ている、という人がいて良いわけである。それこそが働く価値観の多様性であり、それを認めることが性差や国籍だけでない大切なダイバシティーの一つとも言える。

また勤務先の仕事に過度な「働きがい・充実感」を求め、人生というキャリアを勤務先に委ねることはリスキーですらある。転勤、昇進、合併、リストラ、倒産・・・年齢を問わず、あるいは本人の能力如何に関わらず偶発的に降りかかってくるイベントがカイシャには存在している。実際、定年退職後に抜け殻のような人生を送っている人たちを見ると、切なくなる。外的要因に左右されない「やりがい・充実感」という価値を求めるのであれば、自然と「かせぎ」と「しごと」の違いとそれぞれのあり方を考えて行動することの意味に気付くのだ。

つまり自分にとって"真のしごと=ライフワーク"が何なのかということに早期に気付き、実行することこそが「ライフ」全体のやりがい・充実感の向上につながるのである。個人としての自分の看板は何なのか。一生かけて社会に果たしたいう役割は何なのか。それを見出した上で「かせぎ・しごと・くらし」のバランスを柔軟にコントロールしていくことこそが、真の「ライフバランス」なのだ。