skillnoteのブログ

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情報アプリやポイントの代わりに差し出しているモノは何か?

ネットの利便性や娯楽性が日々刻々と進展している中で、それを完全に避けて暮らすことはほぼ不可能になりました。ビッグデータ解析による個人の消費動向の掘り起こし、及びマーケティング3.0的な市場の見直しの下、最終消費者である私たちは初めて経験する場面を迎えました。個人情報の扱いやネットリテラシーの重要性を理解しているつもりが、実はその概念や指し示しているもの自体が少し前から大きく変化していることに留意することが必要です。

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*ワーククラウド:出典 Vonvon

個人情報というと過去は個人を特定できる情報、すなわち氏名や住所、電話番号、メールアドレス、顔写真、年齢や勤務先名など、むやみに不特定の他人には知られたくないと直感的に感じるファクターを指していました。依然としてこれらの情報価値は高く、生活の中で適切に取り扱う仕組みはある程度整備されてきましたし、人々の意識も過敏なほどに高まりました。

ネットリテラシーにおいても、数々の"炎上"事例や深刻な事件に発展してしまった数々の出来事をたびたび目にすることを通じて学びを深め、ネット社会で自分自身や家族、あるいは企業体を守るための規範と行動基準がほぼ共通認識として定着しつつあります。ではそれで十分に安全で、何も心配することは無いのでしょうか? 

どうも最近は「他人に知られる可能性のある、個人に関する情報の種類」が圧倒的に増えているように思います。ある人が何時に起きて朝食はどんなメニューで、何時の電車に乗りどこの職場に向かい、ランチに支出する金額はどれくらいで、帰りに立ち寄るお店の種類や、好みのブランドと色・形、関心のある書籍や雑誌・番組や映画などなど。例えばこれらはTポイントカード等のキャッシュバックの仕組みを利用するだけで、ネットワークに提供されているものです。これは単にポイントカードが良い悪いということではなく、数%の還元率を得る代替として、これら自分の個人情報を日々提供しているのだということを意識しているかどうかという、個人情報に対するリテラシーの課題です。

先月末あたりから話題になったFacebook上の通称「ワードクラウド」(どの単語をよく使うか図示するサービス)や、年末恒例の「自分新聞」などは、その娯楽性や得られる情報の代替として、自分の「人間関係」や「指向性」をサービス会社に提供しているという事実を意識した上で利用するかどうか判断するという、これもネットリテラシーの新たな局面を迎えています。

やみくもに全てが危険と遠ざけてはイノベーションの扉は開きませんが、しかし「今はとても不安定な状況にあり、反射的でなく立ち止まり判断する」ということを個人の自己防衛策として認識しておきたいものと考えます。

*参考記事

*セミナー開催情報

*スキルノートのFacebookページ

剛腕型リーダーよりファシリテーション型リーダーが受け入れられる理由

チームを束ねる立場にある人がどのようなリーダーシップを発揮することが、その組織のパフォーマンスを有効に高めることができるのでしょうか。どうも最近の事例を見ていると、カリスマ性を持ち自身の能力も高く俺について来い的な「剛腕型リーダー」よりも、メンバーとの対話を重視しムード作りに手間をかけしなやかに組織を動かす「ファシリテーション型リーダー」の評価が高まっているように感じています。

旧来より存在してきた「剛腕型リーダー」は、その時代時代において必要とされる瞬間がありました。国の統治システムが変わるとか、戦乱からの復興とか、そんな大きな変動期には歴史に名を残すようなカリスマリーダーの下、人々はそこに身を委ね安心を得、社会は結束して成長や安定することを目指しました。

しかし昨今、特に日本において社会は円熟期・安定期を経て、人口減少および経済規模の緩やかな縮小に向かう中で、日々の生活をいかに工夫して維持するのか、また価値の見直しと共にどのような持続的な社会を再構築するのかという局面に変わりました。それは大きな社会だけでなく個々の企業や小さな組織においても同様に接している光景です。その変化と共にいつしか剛腕型リーダーはどこの組織でも敬遠されてしまうようになりました。

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価値を見直していくような非定型的な場面では、何よりもそこに参加している全ての人々がどのように感じているのか、また今後どうしていきたいのかという意思の一つ一つに大切な意味があります。誰かがズバッと決めてこうしましょう、では拾いきれない多様なニーズや考え方があるのが現在の社会の姿です。子育ての課題、生活困窮、労働の諸問題などなど、多岐にわたる分野それぞれにおいて異なる実態と要因があります。ですからそれらの解決には何よりも当事者である自分自身が関わっていくことが必要になりますし、近い境遇の人たちが集まり意見を交わし、見落としている何かを見つけることが問題を解決するために有効な手段となります。

自然、それらの人々が口を開きやすい場づくりが大切となり、偏りのない議論をフェアに進めるスキルの価値が高まります。参加者が自分ごととして課題を位置づけ、自分も解決策の一端を担う気持ちと役割を持つことを支援する役割、つまりこれらはファシリテーションの技術そのものであり、旧来型のカリスマ剛腕型リーダーとは役割を異にする能力が求められることとなったのです。

と、ここまで書いてFacebookを眺めていると似たような記事を見つけました。


おおよそ、お伝えしたいことは共通しています。文中の「サーバントリーダーシップ」というのは周辺環境を整える支援型のリーダーという位置付けですが、ファシリテーター型リーダーは相手を信頼し引き出すことに全ての力を集中させる役割であり、より能動的に関わるイメージと捉えていただきたいと思います。

ファシリテーションは会議やワークショップ進行などの単に独立したコミュニケーションスキルに限定されるものでは決してありません。このように新たな局面を迎えた社会におけるリーダーシップの次なる姿そのものとしてファシリテーターが認知され、イノベーションを果たす役割を積極的に担う人々が増えてくることを、その立場を目指す一人として期待しています。

参加するなら無料セミナーより有料セミナーを優先すべき理由

結論を先に言うと、受講者として習得効果が高いのは圧倒的に「有料」セミナーだということ。

無料だと主催者が手を抜いているとか、有料の講師の方が伝えるノウハウの質が高いとか、そういうことではない。「有料」の時は受講者側の心のありようと、それに伴う行動が無料のそれとはまったく違ってくるからだ。

【有料セミナーに参加する時の気持ち】
・2時間5千円(あくまで一例)はそこそこの値段だ、きっと何かためになる情報があるに違いない。
・仕事を定時で退社して参加、家族にも同意を得た。他のことを後回しにしても今日は自らが学ぶことを優先したい。
・セミナーで退屈な時間があったとしても、どこかに有益な情報があるだろうから最後まで集中しよう。
・せっかくお金を払ったのだから、講師や周囲の人たちと名刺交換して、SNSでも繋がって、セミナー後も価値のあるお付き合いにしたい。
・(ましてや受講料前払いなら)絶対に休まない、何があっても参加する!

と、このような気持ちに誰しもなるはず。「自分の意思で時間とお金を使ったこと」に価値を見出したいと思えば、自然と集中して話を聴くし、ネットワークを広げようと積極的なコミュニケーションをとるし、セミナー参加後の展開も違ってくる。したがって明確に、セミナー参加の「before-after」で行動に変化が出てくる。

そして何より、有料セミナーに参加している他の受講者も同じ気持ちでいることが大きい。初対面の隣の人に声を掛けると、そもそもコミュニケーションの窓が開いているので表面だけでなく本質に迫る話ができるし、形だけの名刺交換で終わらないという期待感がある。

【無料セミナーに参加する時の気持ち】
・無料だし、時間があるのでとりあえず申し込んでみた。
・他に優先する予定ができたらキャンセルしよう。
・今日は仕事が忙しくて疲れたから、参加はやめよう。
・参加したけど、つまらなかったら早く退席しよう。
・講師も受講者もイマイチに見えるので、今日は無駄だったかも。

無料のセミナーが全てそうではないけれど、こういうことになり易いのも事実。結果、限られた時間を無駄にしてしまうこともあり、何より次の行動や成果に反映し辛い。

逆にセミナーを主催する立場としては正直、有料セミナーの方が圧倒的に気合が入るし、きめ細やかな対応ができる。無料の時は必ず何らかの理由があり、それは地域への還元だったり、純粋なボランティア精神だったり、次への告知目的だったりする。

講師としては無料セミナーであれば、受講者の期待値がそれほど高くなく、気楽にできる面はあるので、特に活動の初期に経験を積みたい時期には必要なプロセスかもしれない。しかしそれを過ぎたら、無意味な無料というのは、受講者にその機会の価値を伝える手段を一つ放棄したことになる。

貴重な受講料をいただいている場合は、それに全力で応えようと、自身が目指すハードルが一気に高まる。この時間が有意義でなければ許さないぞ!という参加者の目線がより厳しいものになる。その適度なプレッシャーこそが、より質の高い時間を提供する原動力となるのだ。


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仕事が嫌いだ、という感情は隠さない方が良い変化は生まれる

就活であれだけ内定を望んだカイシャなのに、そして念願叶っていままさにそこで働いているのに、お休み明けの月曜日がユウウツだ。カイシャが嫌だなと思ったことも一度や二度ではないし、正直いうと仕事が嫌いだ!

と、感じる人は決して少なくないはずだ。僕は、その感情を無理に心の内に隠す必要はない、と感じている。なぜなら、「仕事が嫌いだ」という感情は新たな何かを生み出す大きな原動力になるからだ。

仕事が嫌いだというその背景や原因は人それぞれだが、「自社のビジネスモデルがどうしても許せない!辞めてやる!」という人は稀だろう。たぶん仕事が嫌いだという理由の大半は、目の前の小さな人間関係とか、長年のマンネリから隣の芝生が輝いて見えるとか、ブラック企業が散々問題視されてるのに相変わらず残業体質の職場とか、そういう「些細な」ことなのだ。

仕事が嫌いだという状況を解決するには極論、環境を変えるか、相手を変えるか、自分が変わるか、その3つしかない。だから、そのどれかを自分で選択すれば良い。選択せずに一人でブツブツと文句を言い続ける、というのも4番目の選択肢にあるが、それは問題解決には向かわない。

転職か、説得か、自己革新か。「仕事が嫌いだ!」と公言することで、そのどれかを選ばなければならない状況になる。まずは「先送り」から脱出することができる。これが一つ目の良い変化。

そして、転職なり説得なり自己革新なり、どれかに向かって動き出す時の気持ちを想像してみて欲しい。きっと、自分の過去を棚卸しして、今の環境を分析して、真の問題点を見つけ、その解決策をひねり出すという共通のプロセスを進んでいくはずだ。それは未来志向で、生産的で、魅力的な時間に違いない。

そうやって、仕事が嫌いだ!という一見ネガティブな感情をオモテに表すことが、具体的な行動に変わっていく。何も言わずにグッと我慢して、アクションしない選択を続けるのと、どちらに望むゴールがあるのかはもはや明確だ。

だから、もし仕事が嫌いだ!と心の底から感じているのならば、まずは信頼できる一人の親友に、そっとつぶやいてみて欲しい。そしてもし自分が相談される立場に立ったならば、ただ頷いて聞いてみて欲しい。きっとごく自然に、心の奥から次にやるべきことが湧き出てくるはずだ。そして、数十分前とは全く違う、具体的に何かを見定めた、晴れやかな気分になっていることだろう。


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ファシリテーション講座を作成中です

ファシリテーション講座を開催して欲しい、と長年仕事を共にしている人から、先日嬉しいご依頼をいただきました。私自身は面と向かったセミナースタイルを活動の軸にしているので、日ごろファシリテーションを様々な場面で行ってきましたし、また自分自身をファシリテーターの一員であるとも思っています。

ただ、これまではそのスキルを体系化しようというモチベーションがなかなか成熟することはありませんでした。書店に行けば思いのほかたくさんのファシリテーション指南書が並んでいるし、またファシリテーター養成講座なるものも、探せば誰でも受講することができますので、まあいいかなと。

しかしその一方で、自分自身が学ぶ立場としてそれらの書籍や講座を読んだり受けたりするたびに、肩透かしを喰らってきたことも数多くあり、もっと本質に迫るものができないものか、よりシンプルで実践性の高いプログラムは実現できないものかと、遠い目標にしていたことも事実です。

実践者の一人として日々感じていることは、ファシリテーションは方法論でもなければ思想でもない、ということです。あるやり方さえ忠実になぞれば自動的に場が活性化するものではないですし、スタイルにのめり込み自己陶酔的にファシリテーションを行うことでは期待したアウトプットには至りません。同じ場面が二度現れることは無いにも関わらず、コアとなるスキルは確実に存在するという、何とも暗黙知的な姿だと、私はファシリテーションを行うたびに感じてきました。

そんなことを考えながら本日、講座のアウトラインを組み上げることが出来ました。これから検証を重ね、来月中旬のお披露目に向けて内容を研ぎ澄ませていきたいと思います。今回はクローズドの開催になりますが、いずれは公開セミナーとしてご案内できればと思います。

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イケメンではないアラフォー男子が輝くためにやるべきたった一つのこと

約20年前、民間企業に入社した僕は最初に営業職に就いた。どういう巡り合わせだったのか面白いように契約が取れ、多くの先輩方を上回る営業成績を挙げ、有頂天だった。どの顧客のところに行っても良くしてくれたが、特に自分より一回り、あるいは二回りも年上の人たちからのウケが男女問わず良かった。

当時はそれがどうしてかわからなかったが、若い男性職員がロクに物も知らずただ明るく元気に振る舞うだけで、仕事は取れた。世の中がまだそういう時代だったということもあるだろうが、ともかく若さは確実に武器だった。

30代になり、若者は若者で無くなった。愛想を振りまくだけでは、相手は信頼してくれない。ただ元気にしていても、相手に何も満足を与えることはできない。しかし30代というのはまだまだ気力・体力とも変わらずにピンピンしている。昔のやり方を少し変えていけば人付き合いのおおよそは何とかなるし、多少の知識を仕入れて自己研鑽に励み、人材価値を高めていけばそれで仕事の役割も十分に果たすことができた。

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そして40代になった。それは当たり前のことなのだけれど、いつしか若者とは全く違う人種になっていた。大学生や若手社会人からは、まるで親のように言われることも増えた。さらに、これまでに蓄積してきた多少の知識・経験や習得した能力だけでは、世間から求められる役割を果たすには何かが不足しているようにも感じ始めた。自分が持っているものは基本的には過去の遺産であり、それを価値と見るかはその人次第で、少なくとも自分自身より他人がそれを高く評価することは稀であることにも気づいた。つまり自分は、何者でもないただの人だったのだ。

そもそも、アラフォー男子というのは存在しているだけで世間からは煙たがれるものだ、特別にイケメンでない限りは。満員電車で座席に腰掛けたら何故か隣の女性客が嫌な顔をしたり、無意識に大きくなっているクシャミの音に家族が辟易としていたり、職場でもいつの間にか若手社員からは会社を代弁する立場に勝手に置かれ陰で敵対視されていたりもする。アラフォー男子が輝くにはどうしたら良いのだろうか。不惑の四十代なんてウソのように戸惑い続けている僕は、その答えを知りたいと思うようになった。

その難題の一つの答えは、若者である彼ら/彼女ら自身に、素直に聞いてみることなのだろうと思う。つまり、教えを、乞うのだ。何も媚びることはない。ただ、対等な人間として素直に聞き、話すことだ。若者は若者のアンテナを持ち、尺度を持ち、文化を持っている。それを、大切にそして上手に育てている。若者というのは大人の未発達な段階などでは決してなく、その存在自体が独立した存在なのだ。

若者を見下したりすることなく対等な目線で、あるいは敬う気持ちを持って接することで、誰しも自分にもそういう瞬間があったこと、そしてその時間の貴重な価値を思い出すことだろう。そして彼ら/彼女らはアラフォー男子が輝くために必要なことを、言葉の行間にそれとなく伝えてくれる。だから今度は僕たちが、一回りも二回りも年下の若者を大切にする順番が来たんだと、そう理解することだ。

ではいつから、若者は若者でなくなるのだろうか?それは「若者」という言葉の響きに、眩しいくらいの魅力を感じてしまった時からだろう。そしてそれは誰にも平等に訪れる、成長の瞬間なんだ。





スマートなFacebookの友達申請タイミング

Facebookを始めて以来の疑問なのですが、初対面で出会った方に友達申請するのにスマートなタイミングや方法ってどうすれば良いのでしょうか。

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1.名刺交換や自己紹介した目の前で申請
→これはほとんどいませんね。LINEはその場が普通なのに、不思議。

2.またよろしくー、Facebook申請しますね!と別れて当日中
→これが多いです。しかし難しいのは「申請しますね」から「申請」ボタンを実際に押すまでの時間。あまり時間が短いと、何だかこちらだけがっついてる?みたいでカッコ悪いようなイメージは私だけでしょうか。いやそんなことは関係無くネットワークを広げたいという気持ちが大切なのですけど。いつ申請しようかと迷っているうちに相手からリクエストが届くと安心したり。結局は出会った日の夜、就寝前くらいが多いですかね。

3.翌日以降
→これはこれでタイミングを逸している感も。翌日中はまだしも、2日以上経ってしまうと今更感があり、申請自体を見送ることも。

ということで結論は出ませんが、ふとした疑問でした、何かアイデアある方は教えてください。

あと、元々の古い知り合いで、突然メッセージ無しに申請してくる方、たまにいますね。親しい人や日頃関わりのある方は既につながっていることが多いので、こういう方との人間関係はそもそも希薄。学生時代に必修の語学だけ同じクラスだった同級生とか、前の前の職場で2ヶ月だけ一緒に仕事した人とか、もはや顔をハッキリとは思い出せないこともあるので、いつどこでご一緒したかくらいはメッセージを貰えないとやや不安。ましてや相手がミスタッチで「友達かも?」のアイコンの申請ボタンを押している可能性もあるので、承認すると微妙な雰囲気になったりすることも。

いずれにしても、ソーシャルメディアにおいてもマナーや習慣は時代とともに変わっていくのでしょうね。