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どうしてティーチング思考から脱し切れないのか

教える側から教えられる側へ一方的に知識や考え方を伝える「ティーチング」の限界説が言われて久しいにも関わらず、巷では依然ティーチングが溢れんばかりに存在していて、まだこんな状況かと嫌な気持ちになる時があります。

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そもそも、ティーチング限界説に至った根底にあるのは「学びのプロセス」そのものを解きほぐした時に、外部刺激による動機付けのみでは、望まれる十分な学習効果を得ることができなかったという長い実践の歴史を背景にしており、それは動かし難い事実でもありました。

ティーチングは学校教育だけでなく社会教育、企業内教育においても同様に存在してきました。上司・先輩・先生や年長者つまり「知っている者」から「知らない者」とされる新入社員や後輩や児童生徒や若者たちに、ただ一方的に事実や考え方を伝えてきたのです。

ティーチング崇拝者は、その発言を聞けばすぐに本性がわかります。その発言は常に強圧的であり、支配的であり、命令的です。相手の発言を聞くことがあっても、それにより己の結論を変えることはありません。知らない者を蔑んでおり、教えることに愉悦しています。極論、ティーチングは自己満足の教育だと断言しても、間違いではないでしょう。

もう、うんざりしているのです、誰もが。人は外部刺激では絶対に変わらない、あくまでも本人が内面で強く感じ考え必要と思い欲する先にこそ、新たな知識の定着や能力の向上があるのです。

大切なのは、待つこと。環境をそれとなく整えて、ただただ待つことが周囲の者に課せられた役割なのだということを、教育の端っこにいる一人としてここに伝えたいと思います。

空腹の者に魚を与えるのではなく釣り方を教えよと聞きますが、さらに言うと釣り方すら「教える」ことは要らないのです。お腹が減ったら何をするべきなのか、一歩目から自分で考えることの先にこそ、アイデアへの気づきや知恵や工夫、そして真の成長があるのですから。

教育の敵は、焦ること。結論を、成長への期待を焦っては、それを得ることはできません。常に主体は相手であり、自分ではないのです。そう謙虚に見守ること、腹を据えることの難しさと向き合うことを受け入れた時、ティーチング思考からようやく抜け出している自分に気づくことでしょう。