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「言葉の森」を育てよう

"書くこと"を続けていくと、それまでに感じることの無かった心境になることがある。文章は自分以外の誰かに読んでもらえる、という前提を持った瞬間に初めて、そこに生命の息吹みたいなものが宿る。自分から発せられた言葉が自分から切り離され、やがて自分の知らないところで自分の知らない多くの人に迎えられる。まるで子どもを送り出すような気持ちで文章を書き届ける、そんな心境だ。

僕たちが日々発している言葉や文章は、自分の頭の中から出て来たもので構成されている。当然ながら自分の頭の中に無いフレーズや文脈は、決して自分から生み出されることは無い。だから大切なのは、たくさんの言葉や文章を読み、書き、多様な文章表現を知る時間をどれだけ豊富に持てるか、ということになる。先日お会いした編集者でライターの赤羽博之氏曰く、これを「言葉の森」と言うそうだ。( 赤羽氏HP http://www.kakimono-navi.jp/  )

残念ながら僕自身は、書くことを自分のこととして正面から受け止めることの無い時間を長く過ごしてしまった。ここ数年になりようやく、自分が表現したいことがおぼろげに見えてきて「書きたい」という感情が芽生えてきた。文章を書くということは、"誰かに伝えたい"と心から強く願う何かが見つからないことには、なかなかスタートし辛いものだ。

遅ればせながらそうして書き始めた時、自分の頭の中の「言葉の森」の大切さに気付く。そう、インプット無しにアウトプットはできない、書けないものはどうやっても書けないのだ。それでもどうにか「伝えたい」という気持ちに引っ張られて一語一語を引き出していくと「言葉の森」のずっと奥のほうにホコリを被っていた何かに気付く。

それは、20数年前に貪るように読んだ初期の村上春樹作品の数々だったり、故・山際淳司氏による躍動感溢れる甲子園のストーリーだったり、難解なビジネスシーンの答えを求めるようにページをめくったドラッカー博士の数々の言葉だったり、そういう忘れていた「何か」の数々だ。

読書は大切、と陳腐な押し付けをするつもりは全くない。だけど、それは枯れることのない"貯金"として確実に自分の内側に蓄積されていく財産になり、書きたいと願うほどにその価値が増していき、自らの表現を力強く支えてくれるものであることを痛切に感じる。思い返せば20代のある時期「毎月5千円分の本を買う」ことを自分のノルマとしていた。それによりやや高額で手の出し辛い書籍を読むことも、普段は手にしない分野を知ることもできた。読書は知識を増やしたり視野を広げるためだけではなく、自分の発信力に大きく貢献してくれるものなのだということに、今ようやく気付くことができている。

大げさに言うならば、僕たちが生きている長くてもほんの80年かそこらの間に、自分が何を他人に伝え、残すことができるかは"人生の満足度"に直結しているのではないかと思う。人間は関係性の上に成り立っている生き物で、他人に自分のことを理解してもらって初めて自分を認め、心落ち着くことができる。書くことはその一つの手段として、とても魅力あふれるコミュニケーションなのだ。

だからこれからも「言葉の森」という宝物を大切に育てながら、書くことに臆せず貪欲に取り組んでいこうと思う。決して飾ったり誇ったりすることなく、伝えたいと心から強く願うことを、そのままに。





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