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むしろ混在させたい「ですます調」と「だ・である調」

学校だったか社会人になってからなのか記憶は定かでないのだけれど、「ですます調」と「だ・である調」は同じ文章の中に混在してはいけない、と教わった。

そして、とくに疑問も持たずにしばらくは、それに従って文章を書くようにしてきた。

でも、最近思うんですよね。誰かに伝えたい"感情や想い"を書き言葉に変換する時は、語尾を意識して揃えない方がうまく伝わるんじゃないか、と。

"〜だ。〜である。"という表現は、強い意思や、こうしたいという決意を表現する時に適している。

"〜です。〜ます。"という表現は、丁寧であると同時に、広がりや余韻を含むことができる。

僕は文筆家でも、文学や語学の素養があるわけでもないので、専門的な見解は他にきっとあるのだろう。ただ経験則として、つらつらと考えや想いを自然体で文にしたためている時、それらの語尾の両方を使い分け混在させている。

書き上げて読み返してみると、語尾の違いが文章の所々に起伏を生み、それがリズムになっている。納得の出来なんて10個のうち1つあるか無いかだけど、でも自分の手を離れた分身のような文章には出来るだけ自分の想いを忠実に載せておきたい。だから、自然と混在している「ですます調」と「だ・である調」はそのままにしておこう、と思うのです。

と、ここまで書いて少し調べてみたら、同じようなことを考えてくれている先人がいました。


本文中で引用されている、土屋耕一さんという方のこんなコピーを紹介します。


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なぜ年齢をきくの

なにも女性だけではなく。
男だって、年齢をきかれるのは、あまり気持ちのいいものじゃないんだ。

女の、そして男の、生きていく姿、それを年齢というハカリにのせて見たがる習慣に、抗議したいと思う。

いま、装いにも、住まいにも、すべて暮らしの中から、もう年齢という枠がなくなりつつあるのですね。

その自由な空気が、秋の、伊勢丹をやさしくつつんでしまいました。


(引用元:鈴木康之「新・名作コピー読本」/注:1975年作品)

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美しいなあ。だからこれからも、自然体で語尾を混在させていこうと思います。





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