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終身雇用の終わり、に私たちが考えるべきこと

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最近、経団連経済同友会やその会員企業の経営者から突然に、そして我も続けとばかりに終身雇用の終わりを告げるコメントが発信されている。潮目が変わる、という言い方があるが本当に変わる時には徐々にではなく、一気に様変わりするものだ。満ち潮が引き潮になり晴天は雹混じりの雷雨へと、自然の変化と同様に私たちの労働環境や前提としていた社会の仕組みはほんの僅かの時間にガラリと変わっていく。

 

人生100年時代」というとてもわかりやすいキーワードに、私たちは2016年11月に出版されたリンダ・グラットン氏による同名の書籍から気づくことができていたわけだが、そこから数えて2年半が経過している。はたしてこの2年半の間に、私自身やこれを読んでいる皆さんは何を考え予測し、具体的にどんな変化を意図して果たすことが出来てきたのだろうか。

 

毎日の目の前の仕事にどのように取り組むかという短期的な課題はそれとして、ある瞬間はそれらを脇に放置してでも考えなければいけない重要な事柄がある。それは自分がこの先数十年どのように働き、生きたいのかという価値観であり、揺らぐことのない哲学である。

 

それらについて考えることを最優先課題として意識していたならば、周辺環境の変化がたとえドラスティックでスピーディーであったとしても、それらは「計画された偶然」として心のゆとりを持って受け止め、自身のキャリア形成を適切に形作ることは十分に可能なはずだ。

 

私自身はいま45歳という年齢だが、この先も生きるであろう50年間を予想する前に過去50年を振り返ってみれば、どれだけ大きな変化が今後あったとしても驚きはしない。50年前である1960〜70年代は、戦後の復興からすっかり立ち直り高度経済成長時代に突入した右肩上がりの時代だった。

 

生産効率の向上や競争力の強化のため資本が大企業に集約され、サラリーマンという「雇用される働き方」が以前の45%程度から80%に達し更に伸びていった。今に至って2018年のサラリーマン比率は過去最大の89%となっている。

 

その前提はあくまで市場が拡大していることで、作っただけ売れ、頑張って働いただけ収入が増えるという約束のもとにあらゆるバランスが取れていた。働き方においては雇用されることの不自由さ、つまり満員電車や長時間の拘束や、夜間休日も含めたお付き合いや転勤・単身赴任などそれらに引き換えても得られる収入と生活の安定、およびそれに紐付く社会的信用というのは、いち個人としても十分に採算が取れているものとして受け止められていた。だから会社はそれらを前提にして人材を自由に獲得し活用することで成長を維持してきたのだ。

 

しかし、である。現実に目を向ければ国内の人口が減少に転じて数年が経つ。2050年の人口予測は1億人を割っていて、現在よりも25%も減少する。年々増加する空き家は850万戸に達し、その傍で生産緑地法における2022年の節目を控え、都市部の畑だった場所には土地の売れ残りを怖れて次々とマンションが建設されている。GDPの高い割合を占める建設業を支えるため、政府機関が進んで不動産投資信託を税金で買い支えることで形の上では好況を維持している。

 

市場は確実に縮小していく現実が容易に想像できるのに、それを受け入れないかのような涙ぐましい努力を国や企業はこれまで続けてきたのだ。しかしここに来て経済界から「終身雇用はもはや維持できない」と表明することの意味は、その前提として置かれてきた社会の状況全てが崩れていくのですよ、もうその道は避けられないのですよ、と言っていることに等しいと理解して間違いではないだろう。

 

そして大切なことは、それは決して不幸なことではないということだ。低成長社会は憂うべきものではなく、モノの価値にきちんと向き合い、必要なものを必要なだけ得て、他者と不要な競争をしなくていい、そういう質的に満たされた社会を創るチャンスだからだ。

 

これまで局所的にはパーマカルチャーやスローライフや様々な言葉で持続可能な社会づくりが必要だと言って実行してきた人たちがいたがそれはあくまで一部で、社会全体としては高度経済成長の亡霊をずっと追い続けてきた。それが昨今はSDGs(持続可能な開発目標)に代表されるようなサステナビリティについての理解が広まり、社会が目指す方向が量的なものから質的なものへと既に変化が始まっている。

 

例えば24時間営業が当たり前とされているコンビニエンスストアが人員不足でやむなく夜間休業したことに対して取られた企業の不適切な対応は、あっという間にそのトップの首をすげ替える必要のあるところまで追い詰められた。それは社会に期待するサービスと私たちの労働という、表裏の事象を一連のものとして捉え議論できるごく普通の人々が増えてきていることの証でもあり、喜ばしいことなのだ。

 

さて、終身雇用の終わりは遠からず現実のものとなっていくだろう。私たちはいま、何を考えて行動するべきなのだろうか。その一律の答えは無い、ということが最大のポイントのように思っている。これから私たちが迎える社会というのは一本のレールに皆が行列を成すのではなく、それぞれが自分にとって適切なレールを新たに敷くことが必要な時代であるからだ。

 

そう考えると、働くことの計画やキャリア形成を自分が属する組織に委ねることのリスクは自然と認識できる。つまり、組織は状況が変わればそれらを容易に放棄する、せざるを得ない可能性が常にあり、そもそも組織が提供してくれるキャリア形成のチャンスは人生全体のごく一部の時期についてでしかない。

 

本来キャリア形成の責任は個人にあり、自分自身よりも自分の未来を案じてくれる人は世の中にはいない。真摯に自分自身に向き合いこれからの「はたらく」を考えたとき、心から自分が社会で果たしたい役割は何なのか考えるスタートラインに立つことができる。

 

終身雇用の終わり、という経営者のメッセージはこれから私たちが目指すべき質的な社会のあり方を考え、そして主体的なキャリア形成の価値と必要性にはっきりと気付かせてくれるとても貴重な機会として受け止めていきたいと、私自身は考えている。