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「バズる記事」は本質的な変化を遠ざける

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これまでの価値観を根本から見直すような本質的で真理を突いた意見を明確に述べることと、その文章がweb・ソーシャルメディアを会して何万何千の人たちに支持され読まれる(バズる)こととの間には、正の相関関係は無いと常々感じている。

何万何千の「いいね」やブックマークを得るということは、つまりマジョリティーの意見をその文章が代弁しているということだ。同感・共感のシェアは「ああこの人は自分と同じ想いで、それを自分に代わりわかりやすく表現してくれている」と感じることで生まれ、それが受け手からさらに拡散し、より多くの人の目に届くという仕組みだ。

しかしよく考えてみると、マジョリティーの意見というのはおおよそ、これまでの歴史や生活を基盤にそれを守り育てる方向にベクトルは向いている。そりゃそうだ、誰も自らのやってきたことを率先して否定はしたくないという自然な想いを持っているからだ。つまり、社会全体としては常に「変化」は嫌われる傾向にある。その中で広く支持される意見というのはどうしても過去の価値観に従ったものになり「あるある」的な予定調和の話題ほど違和感なく多くの人に好まれるものだ。

ところが社会に何かしらの課題が発生していたり、世の中の価値観が変化していく節目においては、そのバズる情報が「変化を遅らせ、遠ざける役割」にしかならないことがある。自分としては薄々これじゃダメかもと感じている萌芽が、多くのマジョリティーの支持意見を目にすることで抑え込まれ、まだまだこのままで大丈夫と自分を言い聞かせ、そして変化のタイミングを次第に逸していく。

今日もまたきっと幾つかの文章が拡散され私たちはそれを目にすることになるだろう。親切や感動のエピソード、親や友人との会話からの普遍的な気付き、働くことや会社組織のあり方についての教訓、、、。

それら一つ一つを否定したいわけではない、書き手にとっては素直な想いの発信であろう。ただそれが多くの人に好まれる文章であればあるほど、旧来的な価値観に基づいた、ともすると社会の変化を遠ざける意見である可能性が高いことを、頭の片隅に置いておいて欲しいのだ。家族観、子育て論、教育論、労働観、リーダーシップ論 etc. 時折議論になるそのどれもが、古くからの価値観と新たに接する出来事との折り合いの話題になる。そして、自然とより多くの声が集まる方へと収束してしまう。

寄らば大樹の陰とは昔の人はよく言ったものだ。どうしても私たちは他人に嫌われたくない、多くのひとと同じ側に立ちたいという同調バイアスがあり、意識せずともそちら側に判断軸を傾け、安心感を得ている。反面、それでは世の中変わらないよね、ということも同時に言える。どれだけ意識的に、他人と異なる意見をヨレずに表現し伝えられるか。また多くの人に支持されなくとも、真意が伝わる相手が一人いれば良いという気持ちでいられるか。それは自分自身とのとの闘いの日々だ。

本質的で真理を突いた、過去の価値観を否定する意見は多くの人には好まれない。だけどそれを表現する使命が自分にあるのだと感じるのなら、続けて行くのがいい。時を経てきっといつか想いを同じくする誰かに届き、社会が必要とする変化の局面に立ち、いよいよ機が熟した時それが少しだけ役立つことができるはず、僕はそう願うのだ。