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「ご栄転」というコトバの終わり

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この一年ほど書くことの修行を兼ねてwebライティングのお手伝いを少しだけして、先日卒業しました。学ぶことも多く、元D広告代理店の編集長からよく言われたのは「タイトルで出落ちしないでください」ということ。まぁページ巡らせてナンボの世界では、最後まで読まないと結論がわからない方が滞留時間が稼げ適しているのだろうけれど。でもそれって文章の本質では無いよね、というわけでこの話は出落ちの話です。

組織に勤めていると人事異動の時期は社内がソワソワしてくる。誰がどうした、自分はどうだろうと身を案じ、人生の大切な指揮権が組織にあることを気づかされる。そして転勤となった人々に向けられる言葉が「ご栄転おめでとうございます!」だ。それが本当にご栄転であろうがなかろうが、礼節として、励ましとして全てがご栄転なのだ。

しかしその概念の終わりは近い、と私は考えている。昇進・昇格であろうと「転ずること=ステップアップ、もしくは幸せ」には必ずしもならなくなる、という意味だ。

そもそも転勤とは、組織が多くの従業員に労働意欲と機会均等を与えるための一つの手段。同期入社のAさんとBさんが最初に偶然割り振られた赴任地から何十年も動くことが無かったら、本人の頑張りの有無を遥かに上回る周辺環境からの影響で仕事の成果が左右されてしまう不平等をならすものだ。そして転勤と昇進・昇格は多くの場面でタイミングが重なるようにできている。だから、ご栄転。

しかし働くことに対する人々の価値観は、従来から比べるともの凄く多様化している。ある新入社員を対象にした調査では、「昇進昇格よりも個人の生活の充実を優先したい」という意見が約7割だった。中堅社員でも、声を大にはしなくとも、近い考え方の人は日に日に増えているように感じる。許されるなら今の生活基盤を動かすことなく、でき得る範囲で仕事は続けたいという派の出現。

何というか、もはやそれらを「怠慢だ」とか「忠誠心が足りない」や、「我慢は必要」「負担は皆で分担」などの言葉では説得できない水域にあるように、理屈ではなく実感として思う。

簡単に言うと「仕事は辛いもので我慢をした先に得られる果実がある」という思い込みのような考え方が、実はそうじゃないんじゃないか、ということ。だから、栄えあるはずのご栄転が、本人にとってはそうではない。または、本人はそうでも家族はガックリ、という状況。

となれば「ご栄転おめでとうございます」の定番あいさつが無くなる日が来るのは、まんざら空想でもなさそう。AI・IoT社会が進めば人間個人に求められるスキルは変化し、人を管理するだけのゼネラリストの絶対数は限りなく減少するとも聞く。それよりも代替できない専門スキルを掘り下げることが生身の労働価値になり、「転じる」というアクション自体の意味が低下する可能性も高い。

じゃあ自分はどんな選択をし、行動しようか。悩みは尽きないどころか先例の無い難しい環境に私たちは今置かれているのだ。さあ、そんな事を考えながら2017年はどのように自分のキャリアをデザインしていこうか。