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ボランティア精神はいいけどボランティア労働はやめた方が良い、という話

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ボランティア精神はとても大切だと思う。個人の欲求や都合のために働くだけでなく、地域や社会の課題にも目を向け頭と手足を動かしてそこに関わろうという主体性の発揮、その心がボランティア精神に他ならないからだ。

ところで一般的なボランティア労働=無給ボランティアの場合、その活動を支えるのはそこに参加する個人の努力や我慢で成り立っている。つまり、何らかの事情で努力や我慢が出来なくなったとき、その役割を継続的に提供することはできなくなる。

無給ボランティアである限り、その場に参加するかどうかの最終決定権はボランティアをする側にある。なので全体として、安定した労務の提供ができづらいという事実がある。

例えば全国で活発に広がる「子ども食堂」の取り組み。素晴らしい活動なのだけれど、聞こえてくる運営側の声にはやはり人手が足りない、当日にならないと何人が手伝えるかわからないのでシフトが組めない、従って告知できる上限の食事数は安全目に出す、などがあるようだ。

また震災などの大規模災害での現場で、無給ボランティアが活躍する一方で、トラブルの声も聞こえる。無給ボランティアとして労務を提している自分は偉いのだから感謝されて当然だ、全て被災者はありがたがってくれるはずだ、だから多少の我儘を言っても許されるはずだ、という誤解がそこにはあるように思う。

そもそも、災害の被災者が無給ボランティアに頭を下げる、あるいは気を遣うこと自体が本来ではないし、それはストレスにもなる。無給ボランティアでやってくれたことだから、本当は不要だけどそうは言えないと被災者が我慢し隠しておくなど、できれば避けたいものだ。

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似たようなことは平時にも起きている。プロボノという、職務特有の知識やスキルを社会貢献に活かすボランティアの一種としての取り組みがある。例えばwebや広報活動に詳しい業種のサラリーマンが何人か異なる所属の人たちとチームを組んで、勤務時間外にNGO団体のwebサイトを刷新したり、会員募集のパンフレットを新たに提案し作成するなどの活動に取り組む。

主催する組織により多少の差はあるが、プロボノ参加者は基本的に無給で、開発に必要な経費のみが団体持ちとなる。NGO側から聞こえてくる話として、参加者は勤務を終えた後に活動するので、打ち合わせの時間が深夜にまで及んだりする。それに毎回合わせるのは負担だ、しかし無給で頑張ってくれているので文句は言えない。あるいは制作物の判断についてプロボノ側とNGO側で意見が異なった時に、無給でやってくれているので本当はこうして欲しい、と思っても譲る部分がある、などの話を実際に聞く。

何より重要なのは、無給ボランティアはその労働自体の価値を限りなく低下させる可能性もある、ということだ。2020年東京オリンピックパラリンピックでは、日本を訪れる大会関係者や外国人旅行客向けに数万人とも言われる運営・通訳ボランティアを募集する。何度も研修を受け時間拘束されるが、研修も実際の活動も、交通費を含め自己負担の無給ボランティアなのだそうだ。

本来通訳というのはれっきとした職業であるし、提供サービスに対価を支払うべき技能・職能であるはず。それがいちどきに大量に訪れる人々へ対応できるプロの通訳が確保できないから、一般市民から無給ボランティアを募るという発想になっている。

では東京オリンピックパラリンピックを終えたらどうなるか。長期的には職業としての通訳の価値が下がるように思えてならない。他のイベントやビジネスシーンで、通訳は無給ボランティアでもできるものだから多額の予算は組めない、できるだけ安く、となるのではないだろうか。

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一方、身近なところに目を向けるとそれぞれの自治体や地域で「市民協働」を進める取り組みがある。何年も前から市民参加しましょう、行政と市民が手をつないで課題解決しましょうと言っている。高齢者、障がい者、子育て、防犯、環境保全、農業、食の安全、空き家、などなど地域の課題は山のようにある。

その時に無給ボランティアを前提とした市民協働という働きかけをよく見かけるが、それは市民協働が進まないどころか後退させる可能性があると感じる。社会や地域の課題はそれ自体が重ければ重いほど、それに関わる人たちの役割も重くなる。

個人としてはリスクを取ってコミットするのだが、果たして自己犠牲の精神を貫き、無給ボランティアとして課題解決の道筋を描き、最後まで実行できる人は何割いるのだろうか、とても疑問だ。

社会貢献だから無料でやるべきだ、という暗示からはそろそろ目を覚ました方が良い。社会貢献事業は、行政サービスや企業活動の狭間で見落とされた社会の課題を取り上げるのだから、それ自体の重要性や役割の重さをそもそも有している仕事であるはず。

社会貢献というフレーズを、資金調達の手を抜く理由に使ってはいけない。本当に必要な役割であれば、人はそこに資金を提供するのだということは、既に数多く成功しているクラウドファンディングの事例が示している。

仮に全く同じ役割で、有給ボランティアと無給ボランティアの2つの求人があったらどちらに応募する人が多いだろうか?答えは明白だ。そもそも必要な対価をきちんと支払うことが当然だし、その資金を確保するために寄付金や支援金だけでなく、その役割自体で市場から資金を得られる循環の仕組みを考えることも必要だ。

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また、少し視点を変えて個人の立場からボランティアとキャリア形成の関係について考えてみる。キャリアの自立に、無給ボランティアは直接的には影響しない。あくまでも対価を得られる役割にのみ、周囲はキャリアとしての価値を与える。職務経歴書に無給ボランティアを書いても、それはボランティアでしょ、の一言で終わるだろう。

先に述べたように、ビジネスパーソンが勤めの仕事の傍で「二足のわらじ」として、本業で保有しているスキルを活用するプロボノという頭脳提供型の無給ボランティアがある。その活動自体を否定するものでは決して無いが、その労働が無給であり続ける限りそれが参画している個人の自立的キャリアに発展することは難しいのではないかと考えている。

その理由は明白だ。無給ボランティアという状態を客観的に表すと、例えば労働単価が本来1万円の仕事を無給ボランティアで行ったとすると、働いた側が1万円分の対価の受け取りを拒否したことと同じ状態なので、理屈上では受益者に対して1万円を「支払って」その仕事をしたことと同義になる。

一方、通常のビジネスとして労働単価1万円を受け取り受益者の望むサービスを提供する場合は、文字通り受け取った1万円の対価に見合う内容が求められる。ここには絶対に埋まらない、限りなく広い差がある。

対価を支払って経験を得るのと、対価を受け取って経験を得るのでは、評価に対するシビアさは真逆だ。そして、通常のビジネスにおけるキャリア形成で求められるのは、対価を受け取りそれに見合ったサービスを生み出し提供できる経験や能力があるか否か、ということだ。

誤解いただきたくないのは、無給ボランティアだと全く無駄なのかというとそうではない。社会の課題に目を向け本業外でそれらに取り組むことは賞賛に値するし、何らか自己成長につながることだろう。しかし同様のサービスに付加価値を付けて生み出し、それに喜んで対価を支払う顧客を得る経験と比較してみると、キャリア形成の観点においてはその効果の差を埋めることは難しい、という客観的な事実があるだけだ。

アメリカと日本の寄付文化やNGOセクターの置かれている環境の違いが言われて久しいが、なぜ大学生の就職活動ランキングでNGOGoogleより人気かというと、その一因は給与が高いからという点も見逃せない。その社会的な労働に、社会が経済的な価値をはっきりと与えている。そして意欲と能力ある学生が優れたNGOスタッフとなり、給与を得ながらより多くの寄付金や賛同者を集める仕組みを成長させるという順回転を生み出している。

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繰り返すが、ボランティア精神はとても大切で、個人の生活のためだけではなく地域や社会の課題に目を向けそこに参加することの価値はとても高い。しかしそれを実践している人はまだまだ少ないので、1人でも多くの人たちに関わって欲しいと願っている。

同時に、1人でも多くの人たちが関わるためには、無給ボランティアでは限界があり、広がりの可能性は限りなく低いということだ。昔と変わらない同じ人たちが、同じ場所で同じことを何年続けても、現状と同じ成果しか得られない。

社会をより良く変えていくためにボランティア精神を持ちながら、スタートは無給ボランティアでも良いが有給のビジネスとして地域の課題に向き合うベクトルを持つこと。シビアだが意味あるチャレンジを1人でも多くの人が行うこと。そういう価値観を共有できる社会にそろそろ変わっていくべき時期にきているのでは、と感じている。