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うつ病から立ち直った話

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桜の蕾がほころび出すと毎年思い出すのだが9年前の今頃、通っていた精神科の主治医から会社を休職することを強く勧められ、翌朝上司に震える手で休職願いを出し、何を話したか緊張と不安感のあまり何も思い出せないが、ともかくそれから2ヶ月半の休職期間に入ることになった。うつ病で休職なんてまさか自分がそんな立場になるとは夢にも思っていなかったので、症状の辛さから休めることの有り難さよりも遥かに、うつ病で休職するということがまるで人間の尊厳を失ってしまうかのような思いに駆られたことを、振り返れば鮮明に思い出す。

 
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その数ヶ月前、2005年当時31才の僕は若手から中堅に差し掛かるかどうかという立場で、年の暮れにそれまで勤務していた人事部から本社の営業部に異動することになった。社内では花形とされる、聞けば誰でも名前を知っている大企業を相手にした大きな取引を担う役割だった。今思えば勝手に描いた幻想だったのだけれど、周囲からの期待と何より自分自身が先頭グループを走っているのだという自負を誇りに感じ、何事も"成功"に向かって進んでいくはずだ、と信じていた。
 
それがあっさりと崩れるのにはさほど時間はかからなかった。
 
とにかく仕事がわからなかった。過去に営業の仕事は経験していたものの、いかんせん仕事の一つ一つが大きくまた特殊で、頭をフル回転して朝から晩まで提案書や見積書を作ってもお客様に出せるレベルには到達しない。夜中まで残業しても翌朝一番に必要な、お客様からの質問に対する回答のための資料が整わない。仕事のデキる人ばかりの職場で皆が自立していて教えて欲しいと言い出せず、ましてや年下の後輩もいて妙なプライドも邪魔していた。当時の僕は、頭を下げて誰彼構わずに「助けて欲しい」と言うことができなかった。
 
それでも日々何とかやりくりして2週間程が経った頃、突然に妻が入院した。望んでいた第一子を授かったという知らせと同時の、切迫流産の危険が迫っていた。それから約2ヶ月、僕は職場と病院を行き来しながら、家ではそれまでまともにやったことも無い洗濯やら掃除やら身の回りのことを手探りでやりながら、着替えを届けに朝病院に寄り、帰りは残業で深夜帰宅という日々がしばらく続いた。妻と子供の状況はなかなか安定せず、とにかく無事でいて欲しいと祈るばかりの日々だった。
 
そんなある日に異変を感じたのは、担当しているお客様の会社の玄関を入ろうとした時だった。昨日までは押せていた呼び出しのベルが、どうしても押せない。あれ?と感じると続いて冷や汗が出てくる、動悸がしてくる。そして言いようのない不安感に襲われ、立っているのもやっとになった。息絶え絶えに廊下を戻り、階段の踊り場で座り込んで呼吸を整えようと試みる。5分、10分、15分。ようやく自分の状態の悪さに気づく。蜘蛛の糸のように頭の中の知識をたぐると思い当たる、そうだこれはメンタルヘルス予防の研修か何かで聞いていたまさにその状態ではないかと。
 
携帯電話で都内の精神科を調べ新宿近辺にある病院へ電話をかけてみた。こちらの状況をあらかた伝えた後に10数問の質問をされ、その一つ一つに答えた。最近の浅い睡眠や食欲不足、動悸や過呼吸など、幾つか該当するものもあれば、そうでないものもあった。病院からはとにかく明日来院するようにと言われ電話を切った。翌朝出社したのちに、午後の診療開始を待って精神科を初めて訪問した。通りからビルに入りエレベーターを乗り受付にたどり着くまで、周囲の目がとても気になったことを覚えている。診察では眼鏡をかけた少し線の細い感じの男性医師と向き合い、過去2ヶ月に起きた環境変化のこと、昨日今日の体調の異変について話した。続いて昨日の電話で聞かれたようなメンタルチェックの質問をより丁寧に数多く行い、その全てにできるだけ丁寧に答えた。質問を一通り終えた医師からの診断は早期のうつ病、というものだった。
 
何より2週間以上の浅い睡眠、特に朝早くに不安感から汗びっしょりになり目が覚める「早朝覚醒」がうつ病の特徴を示していた。常に気持ちが休まることなく交感神経が活発に働き続けていて、その代わりに心が病んでいた。人が精神を破綻するのに2ヶ月とかからないことに、やや驚きも感じた。また、人は一つでなく複数のストレス要因を抱えた時、それを弾力的に跳ね返すことが難しくなるのだそうだ。家族の病気と転勤による不慣れとが重なり、またそれらの状況に理解を全く示さない上司の存在も小さくは無かったことにその時は明確には気づかなかった。はっきりとは覚えていないが、病院から帰宅する電車で人目をはばからず泣いていたように思う。その時は心の底からもう人生が終わってしまったように感じていた。
 
それからしばらくの間、勤務と治療を並行して続ける毎日が続いた。定時で帰宅するようには心がけていたものの、仕事の総量とストレスの量に変化はなく、日に日に自分が衰えていくのを感じた。折しも年度末を迎える営業部はどこか殺伐としていて、売上目標の達成という旗印の下では他のどんな事情も勘案されないかのように見えた。
 
一方、幸いにして妻とお腹の子供は快方に向かい、間も無く退院した。僕は妻を思いやる余力も無く日々を過ごし、倒れこむように週末を迎えては気力の回復に努め、また翌週に疲弊するという日々がしばらく続いた。そうして迎えた3月の末、主治医は勤務しながらの治療に限界があることを明確に伝え、診断書と共に翌日から休職するようにとの指示を僕に与えた。
 
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休職願いを上司に出して一夜が明けると昨日と同じ日常が始まったが、一つだけ異なることは朝食を終えてから何時まででもテレビを眺めていられることだった。妻は身重でありながら家で過ごす僕を気にかけ、毎日のようにランチの場所を考えては買い物に連れ出してくれた。
 
それからしばらく休職期間を過ごすことになるのだが、毎日どこで何をしていたのか、はっきりと思い出せることは数少ない。セロトニンという脳内物質が減少することによる影響なのだそうだが、物事を楽しんだり意欲を持ったりする感情が殆ど生まれなかった。投薬によりそれを補ってはいたが、強制的に脳内物質を補完することで時に自分が分裂してしまうような感覚に襲われたりした。
 
とにかく僕は休むことで少しずつ快方に向かい、6月中旬には症状も殆どあらわれることがなくなった。医師の判断で休職期間は2ヶ月半で終わりを迎えた。不安の中、久しぶりに会社に行くと見覚えのある同僚たちがぎこちなく声を掛けてきたが、全体としては何もなかったようにカレンダーは進んでいた。僕の席は残されてはいたが、僕の仕事を責任持って担当する別の社員が程なく配属された。僕はいわゆる「リハビリ勤務者」の扱いとなり、責任上はいてもいなくても変わらない、形だけの勤務をそれから1年間経験することになった。
 
それからの日々の過ごし方は、ある意味新鮮で楽しかった。幾ばくかの単純作業のような仕事は与えられたが、それ以外の時間は仕事に役立ちそうなことであれば何をしても良いと言われていた。前から気になっていたビジネススキルに関するセミナーや、自分自身が置かれた状況をより深く知るためにメンタルヘルスの講座を数多く受講した。都内のちょっとした移動は電車を使わずに歩いてみた。砂利道や階段、神社やほこらなど古き良き時代の名残りみたいなものが東京のど真ん中にもあることに驚き、それらを見つける日々は今までになかった新たな価値観を与えてくれた。
 
そうして1年間のリハビリ勤務を終え、自らの希望もあり職場を変わることになった。新たな環境でもう一度やり直す機会を貰ったが、同じレールをもう一度やり直すことはもはや選択肢には無かった。仕事に対する"成功"の概念はすっかり置き換わっていたし、もっと言うと人生に対する自分の価値観そのものが以前のそれとは大きく変わっていた。
 
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それから約7年と少しが経過し現在に至るのだが、ここには書ききれない様々なことがその後にも起きた。第一子は無事に誕生したが、初めての育児を一身に背負い病み上がりの夫まで抱えた妻の負担は尋常では無く、今度は妻の方がメンタルダウンした。膨大な時間と様々な人たちの協力を得て乗り越える努力を続けながら、幸いにして第二子にも恵まれた。
 
東日本大震災があり、悲しみの一方で新たな気づきや人のつながりを得た。震災を契機に価値観を見つめ直し、それを実行する多くの人たちを間近で感じた。彼ら・彼女らに遅れること少し、既存のレールを忠実になぞるのではなく、自分自身が新たなレールを牽く生き方を、パラレルキャリアというスタイルを模索しながらそろりそろりと現実化していった。どこまでやれるのか、その時は半信半疑だった。しかし、一旦走り始めてからは早く、それからはあっという間の3年間だった。過去に経験したことのない、組織に依存しているのみでは感じることの無い充実感が得られ、また社会の中での自分の"立ち位置"をおぼろげに見つけることが出来た。
 
これから先、またいつ何が起きるかはわからない。ただ言えることは、何が起きてもまた時間をかけて立て直せば良いということだ。弱さを知ることは強さでもある。自らの価値観に正直に生きる、ということさえ選択できていれば、後はどうにでもなるものだ。それに最初に気づかせてくれたのはうつ病の経験であったのだから、今はむしろ感謝している。そしてそこから立ち直ることは十分に可能なのだということを、もし今苦しんでいる人たちがこれを読んでくれたなら心から伝えたいと思っている。