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就活で自分探しをしてはいけない

先日テレビ番組を見ていたら、『バカの壁』著者の養老孟司氏が、「自分探しはヒマな証拠 」と言い放っていた。

やや厳しいけど、それは恐らく図星なのだろう。そんなことは無い、と当事者は常に必死な気持ちでいるわけなのだけど。

例えば大学生の就職活動。単なる職探しがいつの間にか「自分探し」にすり替わってしまうロジックが存在する。自分の強み・弱みは何か、自分らしい生き方とは何か、本当は何をしたいのか、それを実現できる場所はどこか。

内定を得た後も、この会社で本当に良いのか、自分はふさわしくないのではないか、等々が膨張し「内定うつ」という状況すらあると聞く。

これらは全て、就活ビジネスの負の産物。ESやら面接対策やら、元々は全て就活ビジネスの会社が考えたレールの上の話。その軸に自分探しがどーんと据え置かれていて、あたかもそれをしないと職を得られないのではないかと錯覚させる現実に騙されてしまう。

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内定をたくさん貰える"就活エリート"というのは結局「相手に合わせる能力」であって、仕事力との相関は無いかむしろ長期的には逆相関かもしれない、と私は考えている。

つまり就活というバーチャル空間を体良くやり過ごす、よく言えば図太い人たち。だから、本当の意味での自分軸を持っていないことはあるし、就活という季節が過ぎ去れば何も無かったように"ただの人"に舞い戻る。

他方で、レールに従って真っ正直に"自分探し"をしてしまい、内定という当面の成果も得られずに袋小路に迷い込む人たちが、心を病んでしまうことは大きな問題だ。本来は、それは不必要な苦しみなのに。

学校を出たら、社会で働く。日々を生きていくために職を得、服を纏い、食べ、雨をしのぐ場所を確保する。生きていくために稼ぐという、ただそれだけのこと。就職活動の本来の目的もまったく同じで、生きるために働く、それが全て。どんな時代にも、どの国でも昔からそうしてきた。

それがいつの間にか、やりがいとか自分らしさとか、本来とは違う要素が混ぜ込まれてきて、新卒の職探しがおかしくなっている。

先日、とある男性向けの家事育児セミナーに参加した際に「仕事が"稼ぎを得る場"であると同時に"自己実現の場"として過度に依存していることが課題だと思う」という意見があった。

そう、"稼ぎ"に"自己実現"を重ねるのは重すぎるのです、実際。依存という表現がその深刻さ、辛さを如実に表している。何年も働いて、家庭を持ち、ようやく気づく真実。

一方、友人と話していてハッとしたのは「Facebookでつながっている大学生が就職すると、ぱたっと楽しそうな投稿が無くなるんですよね」という一言。イキイキと学生時代に複数の立場をまたいで活動していた人たちが、就職活動を経て就職すると、遊びはおろか社会的な活動や地域での関わりなど、不思議なほどにトーンダウンすることがある。

もちろん、社会人生活のタイムスケジュールは学生のそれとは異なり、自由になる物理的な時間は限られる。でも、そうはいっても夜と休日は自分次第であるし、物事を考えるということはいつでも自由にできるはず。でもそうさせてくれない、目に見えないカイシャや仕事の"足枷"が精神までも拘束しているとしたら、それは憂うべき事態だ。

その要因は、そこに至る就職活動の中で自分が求めた"自分探し"の先にある、仕事を通じての"自己実現"のプレッシャーではないだろうか。自分が求めたこと故に、放り出すことは自分を否定してしまうことになると錯覚する。だから、必死に、辛くても仕事を"頑張って"しまい、自分がやりたかったことと乖離していく現実を感じながらも、軌道修正できない日々を重ねる。

だから、「稼ぎ」と「自己実現」は場面や役割を分けた方が良い、というのが私自身の従来からの意見。少なくとも一つの役割に全てを期待するのはしんどいし、続かない。あくまで一つの意見なので、同意も反対もあって良いけれど。

自分探しはヒマな証拠、という言葉の本来の意味は、「自分探し」が無意味な問いであるばかりか、害を及ぼす可能性すらあるから止めようよ、という養老先生の優しさから出た言葉ではないだろうか。

少なくとも、働くために生きるのではなくて、生きるために働く。そして働くこととは、稼いで生きていくこと。その原点をシンプルにということを、いま迷っている大学生に伝えたい。



*2017.3.1 改題加筆