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入学式に教師が欠席した話を対岸の火事として騒ぐ前に見つめるべき自分の価値観と行動の関係

高校の教師が勤務先の入学式を欠席し、自分の子供の入学式に出席したことの是非が言われている。

高校教諭が入学式を欠席 「息子の入学式に出席のため」という理由は許されるか-The huffington post

「教員が、教え子より息子の入学式を大切にする」のは当たり前 : イケハヤ書店 by @IHayato

教師は率先して「仕事よりプライベートを優先」する姿勢を見せるべき - 脱社畜ブログ

賛成反対それぞれに理屈はあり、また絶対的な正解のない問いであることも事実。大切なのは対岸の火事として騒ぐことではなく、当事者として自分が実際にどのように考え、日常において行動しているかどうかだと、私は思う。

教師はこの世界でたった一つの特殊な職業だろうか?私たち自身はこのような、自分の子供の入学式と勤務先の出来事が重なるような場面と類する局面に置かれたことが、これまでの社会人生活の中で無かったか。

この話の要は、家庭人としての判断と、公人・職業人としての判断が相反してしまう場面にどう対処するかということである。議論する前提として、「教師は聖職だから例外で、私たちサラリーマンとは違う」とお考えの方は、少し認識を改めた方が良いだろう。教師も数ある職業の一つで、「私たち」と何も変わらない、仕事としての役割に過ぎない。とかく普段は公立の学校教育の不足や物足りなさを、お受験や塾や通信教育など公教育以外の機会を子供に与えることで、自らの親としての立ち位置を保っている人々が、自らに都合の良い場面だけを切り取って公立校の教師にあるまじき姿勢だといきり立つのはお角が違う、と言ったところだ。「幻の教師像」は教師自身も、子供をも幸せにしないナンセンスだと思う。あくまで血の通った一人の人間としての教師であるからこそ、この複雑化した社会に子供たちを送り出す、まず最初の小社会としての学校世界の案内人としてその役割を担うことができるのだ。教師の皆さんの役割の重さと日々の貢献に、心から感謝して止まない。

さて、人生においては家庭も仕事も、どちらも重要だ。「判断」をするためには、日々の行動の選択肢の優先順位を考える基となる「価値観」が大切なのだろうと思う。その際の優先順位は常に「自分にとっての」優先順位であることが、持続可能な生活・社会を維持するうえで必要だ。優先順位が他人のそれであっては、ただただ自分を苦しめることになってしまう。

日本社会の悪癖として、自己犠牲となる方が自分の価値観を優先することよりも良し、とする傾向が未だに存在する。仕事のため、世の中のためとして自分や家族が我慢して無理をすることがむしろ好まれる場面すらある。でもそれは単なるチキンレースで、結果的に誰も幸せにはなっていないと、私は思う。

だから、日々の仕事と生活の中で、細かな一つ一つの判断を、堂々と自分の価値観に基づいて行うことを、まず実行してみることが大切だ。その結果、「子供が高熱だから重要得意先の接待を断って早退する人」がいて良いし、逆に「それでも仕事優先」という人もいて、その両方の判断がともに平等な選択肢として社会に認知される、フラットな状態が望ましい。

高校の教師が勤務先の入学式を欠席し自分の子供の入学式に出席したことは、その本人が本人の価値観に正直に判断したことであれば、支持されるべきことだと思う。その一方で、言い出すまでもなく勤務先の入学式を優先して自分の子供の入学式を欠席した教師も全国にはいただろう。その人々が本当に自分の価値観に正直にそう判断したのであればそれは一つの選択であったと思うし、逆にそれが自己犠牲の呪縛によるものだったのであれば、今すぐに自分の価値観に正直になって欲しい、とも思う。

今回のような場面を切り取った議論ではなく、少し大きな枠で本質を考え、より生きやすい社会にしていきたいと感じた。(了)
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