skillnoteのブログ

「スキルで自分らしく」を応援します

なぜ今、パラレルキャリアなのか(寄稿記事)

特定非営利活動法人 NPO・えん 様の機関紙「万里夢(マリーム)」2017.10発行号へパラレルキャリアについての記事を寄稿させていただきましたので、その内容をご紹介します。

http://www.npo-en.com

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皆様はじめまして、私は現在サラリーマンの仕事と別に、「スキルノート」という事業名でコミュニケーションやビジネススキル・多様な働き方に関するセミナーの講師をしています。最近少しずつ聞かれるようになった「パラレルキャリア」という働き方、生き方です。そんな形に切り替えて約5年になりますが、続けてみて感じていることを今日はご紹介します。

 

5年前というのは東日本大震災が起きてしばらく経過した頃で、旧来型の価値の見直しや働き方・生き方を具体的に変えようという人たちが現れ始めた時期です。私自身もそれまでの「猛烈サラリーマン人生」というレールに疑問と疲れを感じていたこともあり、何かできないものかと機会を探っていました。元々大学時代には教育学を志していたこともあり、企業に入社後の経験を振り返り最もしっくり来た仕事として「人材育成に関する役割」に焦点を当て、記憶や経験の整理を始めました。

 

そして日ごろから興味関心を持ちインプットしてきた人材育成に関する知見や、勤めの仕事を通じて得てきたものを一貫性のあるメッセージとともに形にし、社会に役立てていきながら自分自身の2本目のキャリアとして並走させてみよう、という取り組みを開始しました。「講座・研修」というスタイルを軸に定め、現在は年間約20~30回程度を自治体や企業、NPO等との連携により実施し、同時にブログ・SNSからの情報発信を行っています。

 

一連の取り組みを通じて感じていることは、いま世の中では「リスク」の内訳が変化しているということです。これまでは「他人と同じことをし、一つのことを続け、ルールを決して逸脱しない」ことがリスクを回避する正解とされてきましたが、今はそうすることが逆にリスクを高めているように思います。

 

私たち人間は元来身を守る習性として「安全バイアス、正常性バイアス」が働き、変化を好まない傾向にあります。働き方・生き方においても同様で、周囲を見渡して逸脱しない選択肢こそが安全のように思い込まされています。しかし現実には、少子高齢社会や市場経済の縮小など世の中のモノサシ自体が変化している中では自然と「リスク」の意味も変わり、むしろ「変化をしない」ことがより危険な状況を招く可能性もあるのです。

 

昨年出版され話題となった「LIFE SHIFT」(リンダ・グラットン他 著)に描かれているように、平均寿命が100歳を超える長寿社会を生きる前提で私たちは生活設計をする必要が出てきました。するとこれまでの「教育(学校)→労働(会社)→引退(老後)」というタイムテーブルは意味をなさなくなります。なぜなら多くの人は退職金や年金のみでは生活を維持できず、70歳や80歳を超えても収入の糧を得る必要が出てくるからです。

 

であるならば生活費を得るためだけに「苦痛を伴う仕事」を我慢しながら続けるのではなく、自分自身の興味関心を高めながら社会に価値を提供する働き方のほうが、長い人生を無理なく支える「本当の仕事」となりやすいでしょうし、人生そのものがより充実していくのではないかと考えています。

 

「本当の仕事」の中身は人により異なりますが、本人にとってはそれに取り組むことが楽しく好奇心が満たされ、また周囲の人々や社会にとっても価値が高いものであると対価を得られる継続しやすい仕事になっていきます。

 

そして何より大切なことは、取り組みのスタートは早ければ早い方が良いということです。退職してからさあ始めよう、ではなく30代、40代のうちから勤めの仕事と並行しながら何らかの種まきをし、知識やスキルをインプットすると同時に常にアウトプットを心掛け、会社という枠の外側で一個人の立場として人脈を広げておくことが、近い将来の事業創出の財産になり、それがリスク回避の手段ともなります。

 

上記「LIFE SHIFT」の中でもこういった兼業スタイルは「ポートフォリオ・ワーカー」として紹介され、今後変化していく社会において選びうる働き方の一つとされています。決してこれだけが正解ではないですし、人それぞれの立場や状況により適した働き方・生き方は様々にあるのだろうと思います。

 

私たちそれぞれに今求められていることは、将来の生活や社会の姿を自分なりに捉えながら、旧来のモノサシにこだわることなく柔軟に「リスク」を取ること、用意されているレールを正確に進むのではなく自らが新しいレールを轢いていくのだという意識を持つことだと考えています。パラレルキャリアを実践する日々の中で自分自身の現在と将来をおぼろげに見つめながら、そのように感じています。

 

 

「いつか」はいつか?

 

いつか、自分が本当にやりたいことをやろう。

 

では、その「いつか」はいつやってくるのだろう。

 

自分が本当にやりたいことは、「いつか」がやってこないと出来ないのだろうか。

 

本当にやりたいことよりも優先して日々やっていることは、自分にとってどんな意味があるのだろう。

 

そうして過ごしている毎日に、自分は満足しているのだろうか。

 

もし満足していないのなら、どうすれば満足するようになるのだろう。

 

おそらく未来というのは、一つ一つの小さな行動の積み重ねによってしか形作ることはできない。

 

だから、小さくても日々何か行動することが、自分が本当にやりたいことへと進む、ただ一つの方法だ。

 

「いつか」はたぶん、いつまで待ってもやって来ない。自分が今日という日を「いつか」に変えない限り。

 

 

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「仕事のコントロール度が低い」だけで人は心身に異常をきたす、という実体験

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今日は勤めの方の仕事にまつわる出来事に関して自分が最近経験したことについて書いてみようと思います。
 
新卒からサラリーマンになりちょうど20年が過ぎた節目の春先に、それまでまったく未経験のシステム開発部門へ配属となりました。
 
そこでの専門性に関わる保有スキルは特段無く、また管理職でもないのでどんな役割なのだろう、人事の配置ミスでは? などと当初は半信半疑でした。
 
行ってみれば管理者の下に着き、チームの潤滑油的な立ち位置でプロジェクト全体と自部門との調整を行ったり、また自部門に関わる課題解決の道筋をつけたり。それからメンバーにとっての障壁を取り除くお手伝いをしたり、その他周辺業務の雑用を担ったりする、まぁ「何でも係」という役割に落ち着きました。
 
それはそれで必要な役割ですし、日々を過ごして行く中で自分なりに立ち位置や振る舞いもおぼろげに分かってきたので、仕事の全容や詳細が理解できないなりにも楽しんでおりました。
 
自部門のチームメンバーの人間関係は、過去20年に経験した幾つかの組織と比べても良好で、皆が協力して明るい雰囲気が常に漂う理想的なものでした。ただ、仕事そのものに対する一つ一つの要求度は高く、スケジュールの厳しさと併せて過去の経験と比しても「激務」と言われる範疇に入るかと思います。
 
ふと振り返ると、仕事の要求度合いが高い職場は仲が良く、割と余裕のある職場は人間関係が悪くなる傾向にあるように思います。忙しいとケンカする暇すらなく、課題解決のためには自我を抑えて仲間と協力することが最善だから、という仮説を思い立ちましたが、それほど外れていないように思います。
 
そして着任から4ヶ月くらいの間、わからないことは人に教えを請い、突発案件には呆然としながらも善意の助けをいただき、また難解な事案はモヤモヤのまま出来る方へとバトンタッチし、という何とも予測不能な日々を過ごしました。
 
そうして疲労の蓄積を感じながら待望の夏休みをようやく迎えた初日の夜、ふと体中にムズムズと違和感を覚え、どうにも収まらず翌日曜日に休日診療所へ駆け込むと「ストレスと疲労によるじんましん」との診断をいただき、一週間をうまく表現できないような、過去経験したことの無いかゆみや疲労と共に、ほぼ寝込んだまま過ごすことになりました。
 
その後仕事に復帰した後も繰り返し現れては消えるじんましんと付き合う日々が続き、幸い悪化することはないとはいうものの一喜一憂の毎日で、それから1ヶ月半が経過して今に至ります。医師からは、まぁ長くかかるから焦らずゆっくり治しましょう、とのアドバイスと投薬を受け、仕事量を調整しながら最近ようやく体調を取り戻しつつあります。
 
そんな時に勤務先で「ストレスチェック」の機会がありweb診断したところ、「職場のコミュニケーションや家族の理解は十分だが、仕事そのものに対するコントロール度が著しく低いため、ストレスを感じることでしょう。早めにリフレッシュして心身の健康を保つことを心がけてください。」との診断結果。
 
うーん、ズバリだが一歩間に合わなかったかな笑
 
ともかく、ポイントは「仕事のコントロール度」なのかと、たいへん腑に落ちる結果に納得しました。つまり私たちが普段無意識にやっていることとして、
 
・この仕事ではだいたいこんなタスクが発生する
 
・時折、突発案件が来ることも覚悟している 
 
・自分の出来る範囲はここまてでで、そこから先は出来ないし役割でもないのでやらない
 
・この課題なら誰々さんと誰々さんに聞けばわかるはず
 
・おおよそこの山は○日間で片付くはず
 
・自分の権限としてここまでは押せて、そこから先は無理
 
・自分はこのように振る舞えば、仕事の成果も人間関係も許容範囲に収まる
 
みたいな事を、出来事が発生する瞬間瞬間にやっているのですよね。それで、凡その「アタリ」をつけて、予定調和を生み出すというか、安心して役割に没頭できるわけです。
 
そうやって地ならしをしておくことで「仕事のコントロール」を行うことができ、難解な役割であっても予測精度を高めながら、ある意味トラブルも楽しんでゲーム感覚でクリアしていき、同時に一定の達成度も感じたりすることができるのです。
 
それは会社の仕事だけでなく、家事育児も同じようなことが言えるようにも思います。乳児の世話がなぜたいへんかというと、いつお昼寝をしていつ目覚めるのかが事前にはわからないから、という母親の声を聴いたことがあります。仮にお昼寝時間が事前にきっちりと予測やコントロールできるのであれば、目の前の苦労も「あと30分で寝てくれるまで頑張ろう」という精神状態になりますが、実際はそうではないのでコントロール不能の疲労感を感じるわけです。
 
ということで、人は「仕事のコントロール度が低い」だけで心身に異常をきたす、という体験を現在進行形で行っています。そして面白いもので、受けるストレスと体の反応がリンクしていて、「コントロール度の高いこと」をやっている間はほとんど症状は出ないか、ごく僅かなのです。

趣味の畑仕事や、ライフワークとして続けているビジネススキルや多様なキャリアに関する講座(skillnoteの活動)など、若干ペースは落としながらもこの間にほぼ支障なく出来ていますし、逆にその時間を過ごすことにより心身の回復に貢献しているように実感しています。

むしろ後者の関係でお会いしている方々には何のこと? という印象かもしれません。それだけ、自分で自分の行動を決めることができる、決裁権があることには意味があり、ゆえにパラレルキャリアという選択には相応の価値がある、ということにも繋がります。(この点はいつもこのブログでお伝えしている通りです)
 
とりとめのない話になりましたが、いま自分自身に起きていることを人生における貴重な経験の時間として受け止めながら、気長に回復を目指していければと思います。

「非営利活動・市民活動」はどうして「団体」でないと認められないのか

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当方の講座受講者の方から「非営利活動・市民活動」はどうして「団体」でないと認められないのですか? というご質問をいただきました。

事実、多くの公的機関や行政による支援制度や助成金などは、NPO団体あるいは任意団体による活動のみを対象とし、個人活動は対象外としているケースが多いように経験上感じます。

私自身は、そのあり方自体が非営利活動・市民活動の広がりを妨げていて、また非営利活動自体のクオリティが十分に高まらない一因であるとも考えています。

考えられる「団体」制限の理由としては、個人では市民活動としての公益性や非営利性を保障できず恣意的となるおそれがあることと、反面で複数人であることでそれに対する牽制効果が働くから、というのが団体要件の根拠ではないかと推測しています。

しかし、本当にそうかどうかは疑問のあるところで、意思ある個人が個人として活動することの価値を認めないのは性悪説のように思います。個人であっても社会や地域にとって何が大切かを考えている方は多数おり、また個人活動だからこそ究極のこだわりやユニークな発想を迅速に形にできるという利点が確実にあります。

組織の意思決定は常に困難を伴うものですが、非営利の市民活動において平等な全ての参加者の合意を得ることの困難さ、アクションを一つずつ実現していくハードルの高さは、経験した誰もがご存知だと思います。振り返れば不毛な議論に時間と体力を使い、そして人間関係までもに悪影響を与え疲弊することも決して稀ではありません。

であるならば、団体という形にこだわらず、個人の自由な活動に対してもそれが社会や地域にとって有益なものであるならば差異を設けずに支援していくこと。

それが「非営利活動・市民活動」の質を高め、参加者の裾野を広げることに確実につながると考えていますが、皆さんはどのように思いますか?




【主催講座】
複業塾・やわらかい生き方をつくる講座<リクエスト開催>8/19(土)


僕が今、あえて一般職への転換を選んだ理由

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大学で就職活動を経て卒業して、縁あってお世話になった会社で20年が過ぎました。そして7月からこれまでの総合職からいわゆる一般職、正確には地域限定型総合職という立場に転換をしました。
(昔の一般職が数年前に全て地域限定型総合職に変わるという制度変更がありましたので、期待役割の違いこそあるもののいわゆる昔の一般職です)

採用においては昔から総合職には男性が、一般職には女性がという見えない線引きがありました。そして近年では女性活躍支援の流れの中で女性総合職の割合が増えてきたり、更に女性管理職の増加に期待が集まったりしています。同時に一般職から総合職への転換を促したり、一般職自体の活躍フィールドの見直しなど、女性職員の職場における多様な働き方の仕組みが生まれました。

ところが男性職員が立場役割を変更する、という選択肢はずっとありませんでした。雇用機会均等法では採用・雇用における男女の性別を理由とした差異を設けることは禁じられているものの、実際に男性の一般職を採用する企業はごく限られていて、ましてや採用後に総合職から一般職へ転換する道筋はほとんどありませんでした。

そんな中、本人または家族の病気や介護等による「やむを得ない理由」が有る場合という条件付きではあったものの、その長く閉ざされていた扉が開かれました。家族と相談し総合職から一般職へ転換する申請をし、たいへんありがたいことに認めていただくことができました。

そのように決めた直接の理由は、家族の健康問題により転勤(転居を伴う異動)が難しいためでした。落ち着いた子育て環境や通い慣れた主治医の存在無くしては生活そのものが成り立たない。単身赴任では家事育児に関わる私自身の戦力をほぼ失うことになり、家族の負担が増すのみで現実的ではありません。もし仮に転勤の辞令をいただいた際には正直、退職以外の選択肢が見つかっていませんでした。

私たちが働く目的には幾つかあるかと思いますが、食べていくための生活費を賄う、という一つの原点に立つと、いかに無理なくその役割を続けられるかという持続可能性が大切です。子育てや病気や介護など、誰しもがいずれ両立を強いられる状況において、働くこと・稼ぐこととの折り合いをいかにしてつけていくのか、そのために転勤が現実的に難しいとなると、そうでない働き方が必要になります。

最近目にした記事では、女子大学生の就職活動においてあえて今総合職でなく一般職を選ぶ学生がいて、その理由は転勤が無く長く続けられるから、というものでした。長い人生に誰もが出会うライフイベントとの向き合い方を現実的に考えるなら、そういった選択にも合理性があるということになります。

高度経済成長期に大資本へと労働力が集約されて以降、配置転換による従業員の育成や負担の均一化などの理由で当然とされてきた転勤という仕組み。しかしそれはあくまで「会社」から見た側面であり、視点を「働く人」からに置き換えた瞬間、全く別の様相を呈してきます。

皆が我慢すること、耐えること、何かを犠牲にすることで本当に皆が幸せになれたのかどうか。経営の観点からも転勤は本当に必要な仕組みなのかどうか、当然とされてきたものが変化をしていく節目に差し掛かっているようにも思います。

リクルートワークス研究所「Works 134号 転勤のゆくえ」

他方で、人生100年時代を迎えて新たな価値観が生まれています。昨年来話題を集めている「LIFE SHIFT」(リンダ・グラットン他著)にも描かれているように、皆がより長く生きる長寿化社会になると社会保障や貯蓄のみでは到底生活費を賄うことができないので、これまでより長い期間働く必要が出てきます。

「教育→仕事→引退」というレールは崩れ、老後という概念がなくなり70、80歳代まで労働をし対価を得る必要性に誰しもが迫られる時代の到来。だとすると一つの仕事・一つの会社・一つの役割に全てを託して60歳や65歳で定年となりそこから先をあらためて考える、という生き方はリスクの高い、先の見えない選択になってしまう。ある意味これまでと価値観が逆転する世の中が間もなくやってくるのだとも言われています。

そして生涯を通じて働くとなると、単に稼ぐためだけの仕事を長期にわたり続けることは苦痛になってしまいます。自然と、自分が本当に好きで果たしたい役割や生み出したい価値に関する仕事を自らの手で生み出し、稼ぎとやりがいを得ていくことが、生活全体の満足感を得ることになります。それは手仕事や小商いの能力を磨き、実践するという具体的な選択につながります。

あるいは、一つの役割に稼ぎとやりがいを集中することはそこに過度の依存をすることを意味します。そのハシゴが倒れた瞬間に全てを失う辛さとリスク。とすると複数の立場役割を並行しながら、複数の収入源を持ちやりがいを分散することも選択肢の一つとなります。LIFE SHIFTで描かれている「ポートフォリオ・ワーカー」の考え方です。(私自身が目指している、その過程における変化の一つが今回です)

これらいずれのケースも鍵となるのは、自分がどの場所に根を下ろし、地域との関わりの中でどのように生きていくのか、ということです。住む場所というのは人々と関わりを持つ起点であり、そこで得られる人脈こそが新たな価値を生み出す源泉となり、精神的に豊かな生活を手に入れる大切な要素だからです。

私たちが人生を形作る上で唯一の正解はありませんし、人により考え方により選ぶべき道は多様にあります。しかし大切なことは、自分の人生やキャリアの行く末を決めるタクトは自分自身が持つべきものであり、それを他人に決めさせてしまうことは自分の人生を他人に委ねることになる、ということです。

今回の変化が自分と家族にとって人生を自分たちの手で決めていく小さな節目となること、そして同じような価値観を持ちながらこれから決断しようとされている皆さんにとってささやかな後押しとなること、そんな風になれば嬉しいなと思っています。

年下男性を「〜君」と呼ぶより「〜さん」と呼ぶ男性の方が仕事のバランス感が良い件

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ビジネスパーソンの男性が職場の同性の後輩をどう呼ぶか、という話です。社会人になってから20年くらい頭の片隅でくすぶるように気になっていたことなのですが、最近ふっと何かが舞い降りたようにこんな考えに至りました。

・年下の男性を「〜君」と呼ぶ人より、「〜さん」と呼ぶ人の方がバランス感が良い。

ロジカルな証明などそこには皆無です。ただ、過去の何百人、千人もの「先輩」方との会話、接し方、その人の行動特性やチームの雰囲気、その時々の自分の気持ちや行動への影響を思い出すと、揺るぐことのない結論くらいのレベルでそう思うのです。

「〜さん」付けをするというのは、相手を自分と「対等」に見ているということなのです。部下だろうが気心知れた後輩だろうが新入社員であろうが、一定の線引きを持って「あなたを大人扱いしますよ」という気持ちが端的に現れています。だから「〜さん」付けをする人は言葉遣いが丁寧で、それぞれの場面においては優しい印象を相手に与えます。

しかしその反面相手を大人扱いしますので、仕事をきちんと任せて責任を持たせる、言い訳やその場しのぎを認めない、など相手の痛いところにグサリと根本的な言葉を投げかけます。それが長期的には相手の成長につながり、チームの雰囲気をより良いものとし、全体のパフォーマンスが上がることで、その人自身のリーダーシップやコミュニケーションに対する評価は更に上がり、仕事のバランス感覚に優れた人という印象を与えることになるのでしょう。

年下の男性を「〜君」と呼ぶ人の考えは、それはそれとして正当なものがあるのだろう、とは思います。あえてここで紐解く野暮な追求はしません。(「呼び捨て」という方もいますが、もはや論外ですね)

限られた経験ながら私自身は「〜さん」と呼ばれる相手との方が結果的に高いパフォーマンスを自分が発揮してきたように思いますし、また逆に年下の男性に向かって自分からも「〜さん」を意識的に使うようにしています。

さて、このようにして引き続き周囲を観察しながらこの仮説が正しいのかどうか、相手の呼称には他にも大切な要素があるのかどうか、見守って行きたいと思います。

起業・複業と自己実現の微妙な関係

キャリアチェンジとしての起業、あるいは複業による起業ブームが続いていますね。そこで私が大切だと思うことを少し書きたいと思います。

まず、自己実現や自己肯定感を満たすことを当初のきっかけとして事業を起こすのは「アリ」だと思っています。自分を変えたい、自分を取り巻く現状を打破したいというモチベーションは時に「ゼロから1」を生み出す大きなエネルギーとなるからです。

しかしいつまでもそのままの動機づけでは、あっという間に底を打ってしまうのが現実の厳しさです。お客様がサービスの提供者に求めるのは「プロフェッショナルであること」であって、そこには売り手の目的が自己実現なのか何なのか、本業なのか複業なのかも全く関係無いわけです。

ましてや自己実現・自己肯定感を満たすための事業や商品サービスというのは、自然とその事がうっすらと透けて見えてしまうもの。例えば「意識高い系」と揶揄される人は感心のベクトルが相手(お客様)でなく自分自身に向いているゆえ、それに対しての不快感を示されているのです。厳しく事業者として自らを律する目線を持つことが、持続的なビジネスには大切だと考えています。

また、あの人はとても頑張っていて共感するから応援(購入)しよう、は一回もしくは数回以内の期間限定。相手が自ら進んで、大切な友人に自信を持って紹介できるクオリティや満足感を提供することが、真の顧客満足のためには必要です。

・マルシェで手作りクッキーを販売する
・フリマでオーガニックブーケを販売する
・複業で英語の講師をする

例えばこれらがその場限りの属人的な品質に留まるならリピーターは得づらく、価値としても相応の評価しか選られません。

そうではなく市場にある他の同じ商品サービスを強く意識し、大手企業やブランドでは手の届かないディテールにこだわったり、物凄く狭いターゲットに最適化した商品としての品質向上が実現できれば、それは自然と提供サービスの価格に反映します。

ワンコインだから、一回1,000円だから付き合って欲しいの世界から脱するかどうかは、起業・複業が持続的なものとなるかどうかの分かれ目として乗り越えるべきハードルです。価格というのは顧客が示した、サービスに対する価値判断のバロメーターなのです。

そのために何をしたら良いのか、それはサービス提供者である自分自身のみが解決できる問いです。顧客のことを一番に考え日々思考を巡らせこだわり抜いた先に、きっと答えの断片は見つかるでしょう。(それは自己実現のみを目的とするならば不要なプロセスになるかもしれません)

そうして時間が経ちふと振り返ると、当初ビジネスを立ち上げた頃の不安定な気持ちや自己実現を模索していた姿は過去のものとなり、顧客思考のプロフェッショナルとして自立しつつある自分に気づくことができる、そのように感じています。




【7/7(金)】個人事業主(プチ起業)のための発想力・思考力向上講座

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