skillnoteのブログ

プレゼン技術、ファシリテーション、多様な働き方

コンテンツライティングを手の内に入れたいなら欠かせない5つの行動

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少し大袈裟なタイトルをつけてしまったが本ブログを開始してから4年、月に1〜2本のペースで書き続け、それなりに皆さまに読んでいただきながら続けさせてもらっている。

正直、苦労しながらではあるけれど文章素人の私でも1,500〜3,000文字をコンスタントに書き、文章を通じて何かを伝えることができている要因や行動を振り返ってみたので、少しでも参考にしていただける点があれば良いなと思う。

1.話すように書く
目の前に誰かがいて、その人に話すような意識で書くという意味。話し言葉、書き言葉などの使い分けはあまり考えず、ともかくテーマについて予備知識の全くない人が目の前にいて、その人に5分くらいで伝わるように文章構成をしていく。

そうすると表現が自然と平易になるし、書いている自分自身が読み返しても理解しやすい。書くことに没頭しすぎると、自分自身でも理解できないような表現や複雑な構成になることがあるけれど、それは自己陶酔だし誰にも読まれない文章に価値は与え辛いだろう。

そのためには、いきなり文章を書き出すのではなく、箇条書きで簡単なメモを作ってみると良い。このテーマについてどんな切り口が考えられるか、その事例には何があるか、ざっとポイントを5〜6個くらい書き出す。

そしてコロコロと頭の中でそれらを転がしながら、何から書くか順序を決め、省くことを決め、そして何より自分の伝えたい考えをそれらに織り込み、そこから文章を書き始める。あくまでも目の前に伝えたい誰かが座っていて、話しかけるようなつもりで。

2.気持ちに正直に書く
誰しも経験があるだろうけれど、面白いことを書こうとしたりウケようとすると、まずウケない。飾らない等身大の姿や気持ちに人は共感するからだ。

そしてウソは書かないこと。ウソというのは架空の話というだけでなく、美味しいと思わないのに美味しいと食レポしてしまうようなこと。自分の気持ちにウソをつくと、文体のあちこちにうっすらとそれが現れてしまう。

だから大切なのは、本当に書きたいテーマを発見することにある。今の自分だから書けること、自分でなければ書けないと思うこと、書かなきゃという使命感に駆られるような、そんな熱い気持ちが湧いてくるテーマは何か。

それが見つかれば自然と自分の気持ちに正直に書けるようになり、言葉が内側から溢れ出てくる。

3.批判もよいが、提案も
よく見かけるのが既存の何かを批判することで自分の意見を主張するような書き方。問題提起としてその構図自体はアリなのだけれど、批判に終始することのみではその文章に魅力は伴い辛い。

批判文章は書きやすいし近い意見の人たちの共感も得やすいのだけど、結局それは批判対象に乗っかっているだけで、自らが何かを生み出してしているわけではない。どんな文章にも創造性あってこそ永続的な価値が生まれるものと私は考えているので、もし批判記事を書くならそれと同等のボリュームで自分の対案を併記するのが良いと思う。

過去をざっと振り返っても、批判だけで名を成した文筆家というのは存在しないし、0から1を生み出すことにこそ書き手のクリエイターとしての価値がある。

いや自分はそんな立場は目指さないよという人はいいけれど、書くことで何かを伝えたいと心から願うのであれば、やっぱり批判だけではなくて提案マインドは必須なんだろうと思う。

4.たくさん読む
作家、ノンフィクションライター、ブロガー、何でも良いので手本となる人を何人か見つけて定期的に読むことをお勧めする。私は気になるブロガーさんや文筆家の方々を100人くらいフォローしていて、いやうまいなぁと感嘆すること多数。

直接的に模倣するというよりはとりあえず読んでおくだけで頭の脳のシワの何処かにその記憶が残るので、テーマの切り取り方や擬音、改行タイミングなど文章の引き出しの多様性が自分の中に広がっていく。何でもそうだけれど、良質のインプットあればこそ良質のアウトプットにつながるものだ。

そしてあらためて思うのは、歴史に名を残す小説家・文筆家の文章というのは本当に素晴らしいお手本の宝庫だということ。子供の頃に夏目漱石森鴎外など図書館の端から端まで読み漁ったことが、その後何十年経って「書こう」と自分に向かい合った時に、うっすらとしかし確実に影響を受けていると感じる。

それが流行りのミステリー作家でも良いのだが、ともかく素晴らしい文章に数多く触れることは書く力を確実に引き上げてくれるトレーニングになる。

5.書くことをゴールにしない
書くことも、大きくは数あるコミュニケーション手法の一つ。コミュニケーションの目的は伝わって終わり、ではなく「相手に影響を与え、行動に変化を促すこと」にあると考えているので、記事を書き上げることをゴールにしないことが大切だ。

一日何記事も書けたとしても、そこに生活のリアリティやほとばしる汗や熱い想いが乗っているかどうか。読み手の行動に変化を促すことができるような魅力あるコンテンツというのは簡単には書けないもので、何時間もあるいは何日も産みの苦しみを感じるのが自然なことだ。

そしてwebに文章をアップして一気に注目が集まり話題となるのは嬉しいことではあるけれど、単に読み物としてインスタントに消費されるだけなら書き手としては悲しいことこの上ない。

文章を読んでもらった先に、その人がどんな生活の変化を得られただろうと感じられることの方が何倍も嬉しい。時折、数年前に書いたブログ記事にいいねをしてくれたりメッセージをいただいたりすることがあるけれど「ああこの人に伝わって何か役立てたのだなあ」と実感できる貴重な瞬間だ。

それが私にこれからも一人の市井のライターとして書き続けていこう、とモチベーションを与えてくれる何よりの力になっている。

高すぎるサラリーは人生の優先順位を狂わせる

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お金は、ある意味麻薬だなと思う。一定額以上のそこそこ満足する収入を得ていると、その現状が正しいもののように感じられ、本心の幸福感とは別に満足した生活が送れているように見え、現状の行動を全て肯定してしまう力があるからだ。

統計では労働者に占めるサラリーマンの割合はおよそ89%で、年収1,000万プレーヤーともてはやされるのはそのうち4〜5%、年収700万以上では約12%になる。

税金や社会保険料などを除いた手取りはおよそ7〜8割というところ。それでも月々30万円とか40万円という金額を住居や食費や子供の学費に使えるのであれば、それは一見「理想的な状態」のように見える。

ところが、私たちの社会や働く環境は日々大きく変化している。その変化に敏感に反応できるかどうかが、少し先の未来の満足度を左右する。その前提で考えてみると「高すぎるサラリー」を得ている人たちの中でこんな事が起きているのではないかと、常々考えている。

1.選択の先送り

・何となく、勤務先の様子がおかしい。職場はごく普通だが、マスコミを通じて聞こえる会社の評判は陰りを感じる。でも所詮マスコミは推測記事だろう。今すぐ倒産するなんてあり得ない、毎月ちゃんとした給与をもらっている。だから今までと同じように、しっかりこの会社で最後まで勤めよう。

・働き方を、そろそろ見直したいと内心では考えている。もうガムシャラに働くだけでは幸せな気持ちにはなれなくなってきた。働くことと、プライベートのバランスをもっと中立にしたい。でも上司からは期待されていて評価も高いし、マネージャーへの昇進も強い後押しをいただいて果たすことができた。今さら「降りる」なんて言い出せない。働き方を自分の意思だけでは自由に選べないのは、仕方のないことだ。それに見合った給与を得ているのだから。

2.実力の勘違い

・40歳を手前にとうとう、年収1,000万プレーヤーになった。このご時世、なかなかなれるもんじゃない、家族や親は大喜びだ、どこかしら周囲の自分に向ける目線も違ってきたようだ。

・毎日満員電車に乗り、たびたびの深夜残業、休日の付き合い、上司の無茶なオーダーへのサポート、どれも無駄ではなかった。その全てが自分の仕事に活きていて、成果を発揮し会社から高く評価された。その結果がこの金額に集約されているのだろう。

・今の実力を持ってすれば、万が一今の勤務先を離れることになったとしても、どんな組織に移っても高いパフォーマンスを発揮できるはずだ。年収に見合った評価を得て、ともすると市場価値はそれ以上になるかもしれない。自分の力を求めている場所は限りなくあるはずだ。

3.ローン縛り

・先日、大学時代の友人に久しぶりに会うと、平日夕方なのにネクタイもスーツも着ていない。聞くと脱サラして、昔から好きだった手淹れコーヒーのカフェを始めたのだとか。表情が眩しいくらいに輝いていて、話題も事欠かない。自分は会社の仕事とゴルフの話題以外なかなか出てこない。彼が羨ましいが、今現在の固定収入を失うわけにはいかない。まだ住宅ローンが15年も残っている。

・田舎に引っ越して、農園つきの古民家を自分で改築してのびのび過ごす生活をテレビで見た。振り返れば元々自分も農村の出身だし、のびのびと暮らす時間の流れに正直憧れる。妻に相談してみようか、でもようやく上の子の受験が落ち着いたところで、ようやく建てた都内新居の生活も家族は快適そうだ。この夢プランは退職後まで心の中にとっておこう。

***

それでも自分自信が納得して選択しているのであれば良いのではないか、という意見もある。しかし、大切な事実から目を背けないことが必要だ。

・会社から支払われている年収の額は、あなたの価値ではない。

・本当にやりたいことをできる時間は、限られている。

・逃したタイミングは簡単には帰ってこない


私たちが持っている時間が有限である限り、人生の満足感を高めるためには優先順位がとても大切な要素になる。「人生を左右する大きな決断」というのに劇的に出会う、ということは案外少なく、むしろ日々直面する一つ一つの小さな選択を、自分の価値観に照らして正しいと感じる方向に毎回重ねていくことこそが、自分なりの幸せを導く道に他ならない。

高すぎる給与を得ていると、せっかく気がついた自分自身の価値観への気づきにフタをして、現状維持という選択肢が最も合理的のように見えてしまう、あるいはそのように自分を納得させてしまう効果がある。確かに生活する上でお金は大切だが、お金が最も大切というわけではないはずだ。しかも変化を受け入れるタイミングにそれを無視することは、回り回って将来の所得を減少させることすらありうるのだ。

繰り返すが、給与所得の多寡はあなたの価値を正確には表していない。真の自分の実力は、会社や組織や肩書きを取り払って、それでもようやく顧客から得られることのできた、500円であり1万円なのだ。その先にこそお金だけでなく生活と労働のバランスがとれた、心から満足の得られる自分らしい人生のシナリオを描くことが可能になる、そんな社会へと少しずつシフトし始めている。






◆LIFE SHIFTを実現する タイムマネジメント講座(2/24 金曜日)

◆スキルノートのFacebookページ

LIFE SHIFTを実現する タイムマネジメント講座

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多忙な日常を工夫して、やりたい事にかける時間を創出したい。本当に大切な時間を優先的に確保して自己実現したい。そんな風に感じている方が増えてきました。人生100年時代に必要なタイムマネジメントスキルについて、価値観の認識から日常の習慣に落とし込むまでの手法を学びます。

日時:2017年2月24日(金)19:00~20:30 (18:45開場)

会場:武蔵野プレイス 3F スペースE(武蔵野市境南町2-3-18)
*アクセス JR中央線 武蔵境駅 南口すぐ

定員:12名 *先着順

受講料:2,000円

対象:どなたでも可

申込:専用webサイトもしくは下記メールアドレスまで「氏名、職業、連絡先(携帯電話番号)」をお送りください。

【申込webサイト】

Facebookイベントページ】

【宛先・問合せ先】 skillnote111@gmail.com

実施概要:
・VISIONを描く
・時間管理でなく出来事管理
・効率化は目的でなく手段
・緊急と重要のマトリクス
・優先的にスケジュールすべき事
・習慣化するコツ
・やめる、捨てる意味
・効果的なツールの活用
・全ての決定権は自分に

講師:
スキルノート 主宰/ファシリテーター 芦沢 壮一
1997年一橋大学社会学部卒(教育学専攻)。金融機関に入社後、人材開発部門でビジネススキル研修の開発・講師など企業内教育の推進に携わった経験を活かし、自治体や非営利団体・企業等との連携による公開講座や研修を実施。専門はコミュニケーション、ロジカルシンキング、キャリアデザイン、女性活躍支援。複数の立場を両立しながら時間創出を行い、自己実現と社会的課題の解決を目指している。

*「LIFE SHIFT」=リンダ・グラットン氏の著書より引用、参考。

子どもの主体的な成長のため大人が知っておくべきたった一つのこと

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「子どものための自己紹介のコツ」講座を先週末に開催し、11組のお子さんとその保護者の皆様にご参加いただきました。

 
これは自分を相手に伝えること、伝わることの純粋な喜びや楽しさを知って欲しいと願い、昨年度から続けている取り組みです。
 
講座を終えた後のある風景と私の考えていることを、今日は少しお伝えしたいと思います。
 
講座終了後、それぞれの表情
とっても楽しかった、面白かったよと親子で笑ってお帰りになる方々の一方で、時折親子で異なる表情をお見せになることがあります。
 
人前がすごーく苦手なお子さんが、やっと解放されたとばかり逃げるように立ち去るのを、待て〜!と追いかけるお母さん、それはそれでOKです。
 
必ずお子さんの頭の片隅に、気づきのカケラが残されています。将来のその時を気長に待つのみです。
 
子は満足、親は不満・・・?
少し気になるのは、お子さんは笑顔でとても楽しんでくれたように見える反面、やや物足りない感じの表情でお帰りになる保護者の皆様。じつは毎回、数組はいらっしゃいます。
 
期待していた内容と違った、もっと明確に成果を感じ取りたい、よりハッキリとやり方を指導して欲しかった、うちの子どもは理解していたのかどうか・・・。そんなお気持ちでいることでしょう。アンケートにもお書きいただくことがあります。
 
私自身まだまだ完璧には程遠い講義と思いますので、お子さんにより楽しんでいただき、また真の気づきを得てもらえるよう努力を継続して参ります。
 
しかしながら、親の不安を満たすだけの、形だけの講義は今後も行うことはないでしょう。どういうことか、ご説明します。
 
楽しみながら学ぶことの価値
この講座の主役はあくまでお子さんです。親の知らない、子どもの成長の一端をほんの少しお手伝いしたい、それによりお子さん自身が何かのキッカケや自信を手に入れ、将来的に他者とのコミュニケーションを自ら楽しめるようになることを、目指しています。
 
そして「楽しむことは、学ぶこと」という理解を、ぜひ親子で共有して欲しいのです。主体的な成長は苦痛ではなく、楽しみの中にこそあります。楽しみながら学ぶことこそ、継続的で主体的な成長に最も必要な要素なのです。
 
前時代的な、苦労してこそ実力が〜という妄想が何ら合理的な成長につながらないのは、最近社会の認知を得てきたスポーツにおいてはもとより、学業やコミュニケーションにおいても同じものと考えています。
 
ですから、講座からの帰路はお子さんが自分から話すまで、親からアドバイスを加えたり、ましてやダメ出しなんか決してしないで欲しいのです。
 
真の成長は「内発的な動機付け」による
大人も子どもも全く同じ、真の成長は内発的な動機づけ以外にはなく、外部からの影響はあくまで補完的なもの。アドバイスは時にはノイズですらあることを、たとえ親と子の関係であっても同様だと、理解することが必要です。
 
親子といえど別人格で、子は親の所有物ではありません。子どもを一人の独立した人間として接し、本人の感覚や判断を最大限尊重することが、親が果たしたい大切な役割なのです。
 
私がこの講座を通じて行っている本当の目的は、子どもたちの支援を通じ保護者の皆様へ今述べたようなメッセージを伝えることであり、またその先にある社会を変えることにあります。
 
やや、大それているかもしれません。しかし気持ちに偽りはなく、まず自分が影響を与えることのできる半径から始めているのが、この取組です。
 
一方的で過度な教育は虐待と同義で、子どもたちを深く傷つける可能性があります。それは自分自身の体験から、確信を持っている事実でもあります。
 
地域の誰もが、支援する役割
そして、子どもの学びを支援する役割は親や学校教師だけではありません。子どもたちが社会で日々関わる全ての人々が、先生です。
 
通学路にいるシルバー世代のボランティア誘導の方々、コンビニの店員さん、自宅にかかってきた電話の相手、図書館の貸し出し係の方、公民館で出会った人形劇の公演者、などなど。私もその中の一人として、地域のお子さんたちに日々関わっています。
 
直線でなく曲線。規則的でなくランダム。ピッタリよりバラバラ。そういう予定調和とは対極にある事実や人間関係こそが、社会そのものの実態だと思うのです。

子どもたちは少しずつ、自分で考え判断し、行動することを覚える。主体性を身につけていく。そんなことを地域で私たちが、皆で少しずつ伝えていくことができたら、きっとより良い社会になっていくのでは、と日々思うのです。
 
「子どものための 自己紹介のコツ」はそんな想いで発案し、形作ってきました。これからもさまざまなご意見をいただきながら、より良い場作りを続けていきたいと思います。

今日は、私なりに感じていることをお読みいただき、ありがとうございました。ぜひ皆さんの感想、お考えもお寄せください。それぞれに異なると思います、それが良い社会を創っていく上で大切なことだとも、思っています。



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「ご栄転」というコトバの終わり

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この一年ほど書くことの修行を兼ねてwebライティングのお手伝いを少しだけして、先日卒業しました。学ぶことも多く、元D広告代理店の編集長からよく言われたのは「タイトルで出落ちしないでください」ということ。まぁページ巡らせてナンボの世界では、最後まで読まないと結論がわからない方が滞留時間が稼げ適しているのだろうけれど。でもそれって文章の本質では無いよね、というわけでこの話は出落ちの話です。

組織に勤めていると人事異動の時期は社内がソワソワしてくる。誰がどうした、自分はどうだろうと身を案じ、人生の大切な指揮権が組織にあることを気づかされる。そして転勤となった人々に向けられる言葉が「ご栄転おめでとうございます!」だ。それが本当にご栄転であろうがなかろうが、礼節として、励ましとして全てがご栄転なのだ。

しかしその概念の終わりは近い、と私は考えている。昇進・昇格であろうと「転ずること=ステップアップ、もしくは幸せ」には必ずしもならなくなる、という意味だ。

そもそも転勤とは、組織が多くの従業員に労働意欲と機会均等を与えるための一つの手段。同期入社のAさんとBさんが最初に偶然割り振られた赴任地から何十年も動くことが無かったら、本人の頑張りの有無を遥かに上回る周辺環境からの影響で仕事の成果が左右されてしまう不平等をならすものだ。そして転勤と昇進・昇格は多くの場面でタイミングが重なるようにできている。だから、ご栄転。

しかし働くことに対する人々の価値観は、従来から比べるともの凄く多様化している。ある新入社員を対象にした調査では、「昇進昇格よりも個人の生活の充実を優先したい」という意見が約7割だった。中堅社員でも、声を大にはしなくとも、近い考え方の人は日に日に増えているように感じる。許されるなら今の生活基盤を動かすことなく、でき得る範囲で仕事は続けたいという派の出現。

何というか、もはやそれらを「怠慢だ」とか「忠誠心が足りない」や、「我慢は必要」「負担は皆で分担」などの言葉では説得できない水域にあるように、理屈ではなく実感として思う。

簡単に言うと「仕事は辛いもので我慢をした先に得られる果実がある」という思い込みのような考え方が、実はそうじゃないんじゃないか、ということ。だから、栄えあるはずのご栄転が、本人にとってはそうではない。または、本人はそうでも家族はガックリ、という状況。

となれば「ご栄転おめでとうございます」の定番あいさつが無くなる日が来るのは、まんざら空想でもなさそう。AI・IoT社会が進めば人間個人に求められるスキルは変化し、人を管理するだけのゼネラリストの絶対数は限りなく減少するとも聞く。それよりも代替できない専門スキルを掘り下げることが生身の労働価値になり、「転じる」というアクション自体の意味が低下する可能性も高い。

じゃあ自分はどんな選択をし、行動しようか。悩みは尽きないどころか先例の無い難しい環境に私たちは今置かれているのだ。さあ、そんな事を考えながら2017年はどのように自分のキャリアをデザインしていこうか。

貸し農園で農業を始めたら良いことづくめだった話

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ふとしたきっかけで自宅近くの農園を借りて野菜づくりを始めて3年目。ほぼ経験値ゼロからのスタートにも関わらず、すっかり生活の一部となりその魅力に取り憑かれています。飽きることなく続けていけるのは、野菜づくりを通じてたくさんの「良いこと」に日々出会えているからなのですが、その要因を大きく4つお伝えします。

1.採れたて野菜はとにかく美味しい!
自分の手で、家族みんなで作った野菜はとにかく美味しいんです。これまでに挑戦した作物はレタス、キャベツ、ニンジン、スナップエンドウ、枝豆、ジャガイモ、オクラ、芽キャベツ、トマト、下仁田ネギなど季節ごとに様々。誰かに販売するわけではないので、自分たちが食べたいもの、興味ある品種を旬に選んで育てます。時には「種」にもこだわり、収量増や病気対策のため品種改良された「F1種」ではなく、古来からの野菜の姿が楽しめる「固定種」を育てたりもしています。

有機無農薬で少量の野菜を手作業で育てていると、スーパーで毎日並んでいる野菜のことも自然と考えます。農家さんは安定供給や生活のため、ある程度の農薬を使い大量生産に適した方法で野菜を作ります。そして様々な工程と流通を経て、畑での本来の姿とは少し違った野菜がスーパーの店頭に並びます。そこには虫喰いキャベツやイビツなキュウリ、色ムラのある枝豆は並びません。一概に良し悪しということでなく、自分自身で野菜を作ることを通じてそんな事実を自然にはっきりと認識します。

そして何より、自分で野菜を育てると野菜本来の味を新鮮な状態で味わうことができます。採りたての野菜は甘みがあふれ、苦味がありません。野菜の苦手な子供たちも自然と食卓のサラダに手が伸びるようになります。農業が身近な産業だった時代はそれが誰にとっても自然な生活リズムだったはずですが、そんな生活に少しだけ回帰してみると、何とも幸せな気持ちになれます。
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2.リラックス・デトックス・ストレスフリー
どんな野菜も最初は土づくりから始まります。しばらく使っていない畑をクワで耕し、石灰を混ぜて中性化し、腐葉土や緑肥をすき込んで柔らかくし、鶏フンなどの有機肥料で土地の栄養をつける。そんな一連の作業は30分もすると汗だくで、たかだか4m×2mのお借りしている土地を全て耕すには半日以上かかり、終わる頃にはもうヘトヘト。でも作業の間たえず漂う土のにおいと手触り、千切れた雑草から漂う青くさい香り、それらが混じり流れる汗とともに日頃のモヤモヤを吹き飛ばしてくれます。

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土や緑に触れていると自然と心が落ち着いてきます。畑での時間の流れ方は、オフィスのそれとはだいぶ異なります。時計に従って作業するのでなく、土や野菜や天候のリズムに人間が合わせていきます。それは人口のものではない自然との対話だからこそ、元々私たち人間が持っていた原始的な時間の流れに、心身がゆったりと和んでいくのでしょう。

その証拠に、畑で作業をした日はぐっすりと深く眠れます。程よい疲れで自然と眠りにつき、睡眠の質も深くなります。聞くところによると、うつ病など精神疾患からのリハビリとしても畑での作業は有効に活用されていて、園芸療法という分野も確立されているのだそうです。畑には、リラックス・デトックス・ストレスフリーの効果があることを体で実感しています。
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3.畑が土日のレジャーになる
野菜は生き物なので、放っておくことができません。少なくとも週に一度はメンテナンスの時間が必要で、植え付け時期はまめに水やりをしたり、保護のためのネットをかけたり、雑草を適切な程度に抜いたり、成長に合わせて追肥したり、様々な作業があります。また収穫期にはどんどん出来てくるので、食べ頃を損なわないように収穫します。

必然的に土日のどちらかは数時間から半日程度を畑で過ごします。いつしか子供たちと一緒にレジャーシートとおやつを持って畑へ出掛け、野菜の作業をしては休憩し、まるでピクニックのように楽しんでいます。虫が好きな長男はいつもバッタやトンボ、カマキリなどを追いかけるのに夢中です。また子供たちも畑の作業を通じてクワやカマ、剪定ハサミなど少し危険な道具の使い方を覚える機会になります。土や虫たちとたわむれながら、とても東京とは思えないアウトドアな時間を畑では過ごすことができます。

そんな週末のため、畑をお借りしてからは相対的にレジャー費の支出が減りました。畑には毎月数千円の使用料をお支払いしていますが、遊園地や旅行の支出に比べたら遥かに安上がりです。花の咲く季節には野菜が様々な色の花を見せてくれ、観光地に行かなくても楽しめます。今では家から自転車で10分にある畑が何よりのレジャーになっています。
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4.新たなコミュニティができる
私が野菜づくりを行っている農園は、地主の農家さんが使わなくなった分の土地を「体験農園マイファーム」https://myfarmer.jp/ という民間サービスに委託をし分割してユーザーがお借りする仕組みになっています。行政が提供している市民農園もよいのですが、年度ごとの抽選で打ち切りがありえることや、土地の移動が必要になるなど様々な制約がある場合もあると聞きます。その点で民間の体験農園サービスは連続した取り組みが保証されていて、安心して野菜づくりを行えます。

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同じ農園には30区画程度があり、他のユーザーさんとも時折顔を合わせるので「いい色の野菜ですねー」「何に挑戦してますかー?」なとお互いに声を掛け合って、気軽な農園付き合いになっています。また畑には「管理人さん」が毎週末に来てくれるので野菜づくりのアドバイス・具体的なサポートはもちろん、時にはユーザーを集めた畑でのお食事会を企画するなど、ちょっとしたコミュニティになっています。

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地主のおばあちゃんもとても良い人で、ご自身でも畑の一角を使って野菜やお花を育てています。先日おばあちゃんから枝豆のおすそ分けをいただきましたが、農業歴数十年の腕前と私たち素人との差は歴然としていて、畑のおばあちゃんの凄さをあらためて認識しています。こうして、職場と自宅のほかに畑がサードプレイスの機能を果たしてくれ、新たな居場所となり生活全体のクオリティを高めてくれます。


さて、いかがでしたか? 良いことづくめの貸し農園、気になる皆さんはぜひ始めてみてください。
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ボランティア精神はいいけどボランティア労働はやめた方が良い、という話

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ボランティア精神はとても大切だと思う。個人の欲求や都合のために働くだけでなく、地域や社会の課題にも目を向け頭と手足を動かしてそこに関わろうという主体性の発揮、その心がボランティア精神に他ならないからだ。

ところで一般的なボランティア労働=無給ボランティアの場合、その活動を支えるのはそこに参加する個人の努力や我慢で成り立っている。つまり、何らかの事情で努力や我慢が出来なくなったとき、その役割を継続的に提供することはできなくなる。

無給ボランティアである限り、その場に参加するかどうかの最終決定権はボランティアをする側にある。なので全体として、安定した労務の提供ができづらいという事実がある。

例えば全国で活発に広がる「子ども食堂」の取り組み。素晴らしい活動なのだけれど、聞こえてくる運営側の声にはやはり人手が足りない、当日にならないと何人が手伝えるかわからないのでシフトが組めない、従って告知できる上限の食事数は安全目に出す、などがあるようだ。

また震災などの大規模災害での現場で、無給ボランティアが活躍する一方で、トラブルの声も聞こえる。無給ボランティアとして労務を提している自分は偉いのだから感謝されて当然だ、全て被災者はありがたがってくれるはずだ、だから多少の我儘を言っても許されるはずだ、という誤解がそこにはあるように思う。

そもそも、災害の被災者が無給ボランティアに頭を下げる、あるいは気を遣うこと自体が本来ではないし、それはストレスにもなる。無給ボランティアでやってくれたことだから、本当は不要だけどそうは言えないと被災者が我慢し隠しておくなど、できれば避けたいものだ。

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似たようなことは平時にも起きている。プロボノという、職務特有の知識やスキルを社会貢献に活かすボランティアの一種としての取り組みがある。例えばwebや広報活動に詳しい業種のサラリーマンが何人か異なる所属の人たちとチームを組んで、勤務時間外にNGO団体のwebサイトを刷新したり、会員募集のパンフレットを新たに提案し作成するなどの活動に取り組む。

主催する組織により多少の差はあるが、プロボノ参加者は基本的に無給で、開発に必要な経費のみが団体持ちとなる。NGO側から聞こえてくる話として、参加者は勤務を終えた後に活動するので、打ち合わせの時間が深夜にまで及んだりする。それに毎回合わせるのは負担だ、しかし無給で頑張ってくれているので文句は言えない。あるいは制作物の判断についてプロボノ側とNGO側で意見が異なった時に、無給でやってくれているので本当はこうして欲しい、と思っても譲る部分がある、などの話を実際に聞く。

何より重要なのは、無給ボランティアはその労働自体の価値を限りなく低下させる可能性もある、ということだ。2020年東京オリンピックパラリンピックでは、日本を訪れる大会関係者や外国人旅行客向けに数万人とも言われる運営・通訳ボランティアを募集する。何度も研修を受け時間拘束されるが、研修も実際の活動も、交通費を含め自己負担の無給ボランティアなのだそうだ。

本来通訳というのはれっきとした職業であるし、提供サービスに対価を支払うべき技能・職能であるはず。それがいちどきに大量に訪れる人々へ対応できるプロの通訳が確保できないから、一般市民から無給ボランティアを募るという発想になっている。

では東京オリンピックパラリンピックを終えたらどうなるか。長期的には職業としての通訳の価値が下がるように思えてならない。他のイベントやビジネスシーンで、通訳は無給ボランティアでもできるものだから多額の予算は組めない、できるだけ安く、となるのではないだろうか。

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一方、身近なところに目を向けるとそれぞれの自治体や地域で「市民協働」を進める取り組みがある。何年も前から市民参加しましょう、行政と市民が手をつないで課題解決しましょうと言っている。高齢者、障がい者、子育て、防犯、環境保全、農業、食の安全、空き家、などなど地域の課題は山のようにある。

その時に無給ボランティアを前提とした市民協働という働きかけをよく見かけるが、それは市民協働が進まないどころか後退させる可能性があると感じる。社会や地域の課題はそれ自体が重ければ重いほど、それに関わる人たちの役割も重くなる。

個人としてはリスクを取ってコミットするのだが、果たして自己犠牲の精神を貫き、無給ボランティアとして課題解決の道筋を描き、最後まで実行できる人は何割いるのだろうか、とても疑問だ。

社会貢献だから無料でやるべきだ、という暗示からはそろそろ目を覚ました方が良い。社会貢献事業は、行政サービスや企業活動の狭間で見落とされた社会の課題を取り上げるのだから、それ自体の重要性や役割の重さをそもそも有している仕事であるはず。

社会貢献というフレーズを、資金調達の手を抜く理由に使ってはいけない。本当に必要な役割であれば、人はそこに資金を提供するのだということは、既に数多く成功しているクラウドファンディングの事例が示している。

仮に全く同じ役割で、有給ボランティアと無給ボランティアの2つの求人があったらどちらに応募する人が多いだろうか?答えは明白だ。そもそも必要な対価をきちんと支払うことが当然だし、その資金を確保するために寄付金や支援金だけでなく、その役割自体で市場から資金を得られる循環の仕組みを考えることも必要だ。

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また、少し視点を変えて個人の立場からボランティアとキャリア形成の関係について考えてみる。キャリアの自立に、無給ボランティアは直接的には影響しない。あくまでも対価を得られる役割にのみ、周囲はキャリアとしての価値を与える。職務経歴書に無給ボランティアを書いても、それはボランティアでしょ、の一言で終わるだろう。

先に述べたように、ビジネスパーソンが勤めの仕事の傍で「二足のわらじ」として、本業で保有しているスキルを活用するプロボノという頭脳提供型の無給ボランティアがある。その活動自体を否定するものでは決して無いが、その労働が無給であり続ける限りそれが参画している個人の自立的キャリアに発展することは難しいのではないかと考えている。

その理由は明白だ。無給ボランティアという状態を客観的に表すと、例えば労働単価が本来1万円の仕事を無給ボランティアで行ったとすると、働いた側が1万円分の対価の受け取りを拒否したことと同じ状態なので、理屈上では受益者に対して1万円を「支払って」その仕事をしたことと同義になる。

一方、通常のビジネスとして労働単価1万円を受け取り受益者の望むサービスを提供する場合は、文字通り受け取った1万円の対価に見合う内容が求められる。ここには絶対に埋まらない、限りなく広い差がある。

対価を支払って経験を得るのと、対価を受け取って経験を得るのでは、評価に対するシビアさは真逆だ。そして、通常のビジネスにおけるキャリア形成で求められるのは、対価を受け取りそれに見合ったサービスを生み出し提供できる経験や能力があるか否か、ということだ。

誤解いただきたくないのは、無給ボランティアだと全く無駄なのかというとそうではない。社会の課題に目を向け本業外でそれらに取り組むことは賞賛に値するし、何らか自己成長につながることだろう。しかし同様のサービスに付加価値を付けて生み出し、それに喜んで対価を支払う顧客を得る経験と比較してみると、キャリア形成の観点においてはその効果の差を埋めることは難しい、という客観的な事実があるだけだ。

アメリカと日本の寄付文化やNGOセクターの置かれている環境の違いが言われて久しいが、なぜ大学生の就職活動ランキングでNGOGoogleより人気かというと、その一因は給与が高いからという点も見逃せない。その社会的な労働に、社会が経済的な価値をはっきりと与えている。そして意欲と能力ある学生が優れたNGOスタッフとなり、給与を得ながらより多くの寄付金や賛同者を集める仕組みを成長させるという順回転を生み出している。

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繰り返すが、ボランティア精神はとても大切で、個人の生活のためだけではなく地域や社会の課題に目を向けそこに参加することの価値はとても高い。しかしそれを実践している人はまだまだ少ないので、1人でも多くの人たちに関わって欲しいと願っている。

同時に、1人でも多くの人たちが関わるためには、無給ボランティアでは限界があり、広がりの可能性は限りなく低いということだ。昔と変わらない同じ人たちが、同じ場所で同じことを何年続けても、現状と同じ成果しか得られない。

社会をより良く変えていくためにボランティア精神を持ちながら、スタートは無給ボランティアでも良いが有給のビジネスとして地域の課題に向き合うベクトルを持つこと。シビアだが意味あるチャレンジを1人でも多くの人が行うこと。そういう価値観を共有できる社会にそろそろ変わっていくべき時期にきているのでは、と感じている。