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ボランティア精神はいいけどボランティア労働はやめた方が良い、という話

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ボランティア精神はとても大切だと思う。個人の欲求や都合のために働くだけでなく、地域や社会の課題にも目を向け頭と手足を動かしてそこに関わろうという主体性の発揮、その心がボランティア精神に他ならないからだ。

ところで一般的なボランティア労働=無給ボランティアの場合、その活動を支えるのはそこに参加する個人の努力や我慢で成り立っている。つまり、何らかの事情で努力や我慢が出来なくなったとき、その役割を継続的に提供することはできなくなる。

無給ボランティアである限り、その場に参加するかどうかの最終決定権はボランティアをする側にある。なので全体として、安定した労務の提供ができづらいという事実がある。

例えば全国で活発に広がる「子ども食堂」の取り組み。素晴らしい活動なのだけれど、聞こえてくる運営側の声にはやはり人手が足りない、当日にならないと何人が手伝えるかわからないのでシフトが組めない、従って告知できる上限の食事数は安全目に出す、などがあるようだ。

また震災などの大規模災害での現場で、無給ボランティアが活躍する一方で、トラブルの声も聞こえる。無給ボランティアとして労務を提している自分は偉いのだから感謝されて当然だ、全て被災者はありがたがってくれるはずだ、だから多少の我儘を言っても許されるはずだ、という誤解がそこにはあるように思う。

そもそも、災害の被災者が無給ボランティアに頭を下げる、あるいは気を遣うこと自体が本来ではないし、それはストレスにもなる。無給ボランティアでやってくれたことだから、本当は不要だけどそうは言えないと被災者が我慢し隠しておくなど、できれば避けたいものだ。

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似たようなことは平時にも起きている。プロボノという、職務特有の知識やスキルを社会貢献に活かすボランティアの一種としての取り組みがある。例えばwebや広報活動に詳しい業種のサラリーマンが何人か異なる所属の人たちとチームを組んで、勤務時間外にNGO団体のwebサイトを刷新したり、会員募集のパンフレットを新たに提案し作成するなどの活動に取り組む。

主催する組織により多少の差はあるが、プロボノ参加者は基本的に無給で、開発に必要な経費のみが団体持ちとなる。NGO側から聞こえてくる話として、参加者は勤務を終えた後に活動するので、打ち合わせの時間が深夜にまで及んだりする。それに毎回合わせるのは負担だ、しかし無給で頑張ってくれているので文句は言えない。あるいは制作物の判断についてプロボノ側とNGO側で意見が異なった時に、無給でやってくれているので本当はこうして欲しい、と思っても譲る部分がある、などの話を実際に聞く。

何より重要なのは、無給ボランティアはその労働自体の価値を限りなく低下させる可能性もある、ということだ。2020年東京オリンピックパラリンピックでは、日本を訪れる大会関係者や外国人旅行客向けに数万人とも言われる運営・通訳ボランティアを募集する。何度も研修を受け時間拘束されるが、研修も実際の活動も、交通費を含め自己負担の無給ボランティアなのだそうだ。

(その後、1日あたり1,000円の交通費相当のプリペイドカード支給の方針が示されました。しかし、本質的な課題は何も解決していません。2018年9月追記)

本来通訳というのはれっきとした職業であるし、提供サービスに対価を支払うべき技能・職能であるはず。それがいちどきに大量に訪れる人々へ対応できるプロの通訳が確保できないから、一般市民から無給ボランティアを募るという発想になっている。

では東京オリンピックパラリンピックを終えたらどうなるか。長期的には職業としての通訳の価値が下がるように思えてならない。他のイベントやビジネスシーンで、通訳は無給ボランティアでもできるものだから多額の予算は組めない、できるだけ安く、となるのではないだろうか。

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一方、身近なところに目を向けるとそれぞれの自治体や地域で「市民協働」を進める取り組みがある。何年も前から市民参加しましょう、行政と市民が手をつないで課題解決しましょうと言っている。高齢者、障がい者、子育て、防犯、環境保全、農業、食の安全、空き家、などなど地域の課題は山のようにある。

その時に無給ボランティアを前提とした市民協働という働きかけをよく見かけるが、それは市民協働が進まないどころか後退させる可能性があると感じる。社会や地域の課題はそれ自体が重ければ重いほど、それに関わる人たちの役割も重くなる。

個人としてはリスクを取ってコミットするのだが、果たして自己犠牲の精神を貫き、無給ボランティアとして課題解決の道筋を描き、最後まで実行できる人は何割いるのだろうか、とても疑問だ。

社会貢献だから無料でやるべきだ、という暗示からはそろそろ目を覚ました方が良い。社会貢献事業は、行政サービスや企業活動の狭間で見落とされた社会の課題を取り上げるのだから、それ自体の重要性や役割の重さをそもそも有している仕事であるはず。

社会貢献というフレーズを、資金調達の手を抜く理由に使ってはいけない。本当に必要な役割であれば、人はそこに資金を提供するのだということは、既に数多く成功しているクラウドファンディングの事例が示している。

仮に全く同じ役割で、有給ボランティアと無給ボランティアの2つの求人があったらどちらに応募する人が多いだろうか?答えは明白だ。そもそも必要な対価をきちんと支払うことが当然だし、その資金を確保するために寄付金や支援金だけでなく、その役割自体で市場から資金を得られる循環の仕組みを考えることも必要だ。

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また、少し視点を変えて個人の立場からボランティアとキャリア形成の関係について考えてみる。キャリアの自立に、無給ボランティアは直接的には影響しない。あくまでも対価を得られる役割にのみ、周囲はキャリアとしての価値を与える。職務経歴書に無給ボランティアを書いても、それはボランティアでしょ、の一言で終わるだろう。

先に述べたように、ビジネスパーソンが勤めの仕事の傍で「二足のわらじ」として、本業で保有しているスキルを活用するプロボノという頭脳提供型の無給ボランティアがある。その活動自体を否定するものでは決して無いが、その労働が無給であり続ける限りそれが参画している個人の自立的キャリアに発展することは難しいのではないかと考えている。

その理由は明白だ。無給ボランティアという状態を客観的に表すと、例えば労働単価が本来1万円の仕事を無給ボランティアで行ったとすると、働いた側が1万円分の対価の受け取りを拒否したことと同じ状態なので、理屈上では受益者に対して1万円を「支払って」その仕事をしたことと同義になる。

一方、通常のビジネスとして労働単価1万円を受け取り受益者の望むサービスを提供する場合は、文字通り受け取った1万円の対価に見合う内容が求められる。ここには絶対に埋まらない、限りなく広い差がある。

対価を支払って経験を得るのと、対価を受け取って経験を得るのでは、評価に対するシビアさは真逆だ。そして、通常のビジネスにおけるキャリア形成で求められるのは、対価を受け取りそれに見合ったサービスを生み出し提供できる経験や能力があるか否か、ということだ。

誤解いただきたくないのは、無給ボランティアだと全く無駄なのかというとそうではない。社会の課題に目を向け本業外でそれらに取り組むことは賞賛に値するし、何らか自己成長につながることだろう。しかし同様のサービスに付加価値を付けて生み出し、それに喜んで対価を支払う顧客を得る経験と比較してみると、キャリア形成の観点においてはその効果の差を埋めることは難しい、という客観的な事実があるだけだ。

アメリカと日本の寄付文化やNGOセクターの置かれている環境の違いが言われて久しいが、なぜ大学生の就職活動ランキングでNGOGoogleより人気かというと、その一因は給与が高いからという点も見逃せない。その社会的な労働に、社会が経済的な価値をはっきりと与えている。そして意欲と能力ある学生が優れたNGOスタッフとなり、給与を得ながらより多くの寄付金や賛同者を集める仕組みを成長させるという順回転を生み出している。

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繰り返すが、ボランティア精神はとても大切で、個人の生活のためだけではなく地域や社会の課題に目を向けそこに参加することの価値はとても高い。しかしそれを実践している人はまだまだ少ないので、1人でも多くの人たちに関わって欲しいと願っている。

同時に、1人でも多くの人たちが関わるためには、無給ボランティアでは限界があり、広がりの可能性は限りなく低いということだ。昔と変わらない同じ人たちが、同じ場所で同じことを何年続けても、現状と同じ成果しか得られない。

社会をより良く変えていくためにボランティア精神を持ちながら、スタートは無給ボランティアでも良いが有給のビジネスとして地域の課題に向き合うベクトルを持つこと。シビアだが意味あるチャレンジを1人でも多くの人が行うこと。そういう価値観を共有できる社会にそろそろ変わっていくべき時期にきているのでは、と感じている。

好評につき増席【12/18(日)】問題解決力を高める 発想力・思考力講座

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告知です。問題解決とかロジカルシンキングは難しくてわからない!アイデア発想なんか大の苦手!という私自身が苦難の末にたどり着いたシンプルな習得メソッドです。ポイントは、楽しみながら学ぶこと。お待ちしています。


◆公開セミナー◆
「問題解決力を高める 発想力・思考力講座」

新規企画や業務革新でより質の高い成果を得たいビジネスパーソン。突き抜けたイノベーション人材を育成したい企業・団体の人事担当者。起業を目指し多彩なアイデアを創造したい専業主婦。本講座のテーマである「発想力・思考力」は天性の資質だけではなく、その方法論を学ぶことで十分に能力を習得することができます。発想力・思考力それぞれについて具体的なケース課題に取り組み、問題解決力を高める講座です。

これまで企業・団体内でのクローズド研修として限定開催してきましたが、今回初めて公開講座として実施します。

対象:社会人(専業主婦含む)、就職を控えた大学生・大学院生

定員:先着12名

受講料:2,000円

日時:2016年12月18日(日曜日)14:00〜16:00

会場:武蔵野プレイス 3F スペースD(武蔵野市境南町2-3-18)
*アクセス JR中央線 武蔵境駅 南口すぐ

申込:専用webサイトもしくは下記メールアドレスまで「氏名、職業、連絡先(携帯電話番号)」をお送りください。

【申込webサイト】

【宛先・問合せ先】 skillnote111@gmail.com



講師:芦沢 壮一(あしざわ そういち)スキルノート代表/ファシリテーター
1997年一橋大学社会学部卒(教育学専攻)。金融機関に入社後、人材開発部門でビジネススキル研修の開発・講師など企業内教育の推進に携わった経験を活かし、自治体や非営利団体・企業等との連携による公開講座や研修を実施。専門はコミュニケーション、ロジカルシンキング、キャリアデザイン、女性活躍支援。「戦略的複業=パラレルキャリア」の実践と普及を目指している。

子ども向けに「自己紹介のコツ」講座をやり続ける理由

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昨年度から土日を使って「子どものための自己紹介のコツ」という講座を時折実施しています。今日は、なぜこのようなことを私がやろうと思ったのか?ということや、子どもたちに対する想いを書いてみます。

私は、人前で話すときの「伝える技術」を子どもたちに知ってもらいたいのです。「伝える技術」を知っていたら人前で話せたのに、知らなかったから上手く出来なかった、という機会が自分自身の子供の頃を振り返ると多々ありました。それは成長のチャンスや共感者を増やす機会の損失だし、もったいない事だと考えています。

学校では、人前で発表する機会は何かと沢山あります。普段の授業やクラスルームに加え、授業参観や教員向けの研究授業、学芸会、夏休みあけの作文スピーチ、などなど。ですから、子どもたちに身近な機会として「自己紹介」を題材にした講座で「伝える技術」を知ってもらえたら、と考えて始めました。

いま話題のアクティブラーニングを使った授業でも、きっと子ども自身が発表する時間は増えていくでしょう。でも、肝心の「伝える技術」そのものは恐らく、学校教育の中できちんとは教えてくれません

教室の壁には「発表は相手の目を見て話そう」「笑顔で話そう」という注意書きは貼られています。でも、誰の目を見るの?いつ、何秒見ればいいの?どの順番で誰をみたらいいの?恥ずかしくて見れないけどどうしたらいいの?こんな気持ちじゃ笑顔になれないけどダメなの???

そうは先生にはきっと聞けないので、わからないのに暗黙のうちに理解したとみなされ、発表はしなきゃいけない。それって、物凄く辛いことですよね?方針のない経験の積み重ねは技術の習得にはつながらず、ただ苦痛の記憶だけが残ります。そして、発表や人前で伝えること自体が嫌いになってしまう子も中には出てくるでしょう。

・誰の目を見るの?
→一番後ろの人を見て、話し始めます。自然と真っ直ぐな姿勢になり皆に聞こえる声が出ます。

・いつ、何秒見ればいいの?
→一人に、一文を話し切るくらいです。5〜7秒が目安です。

・どの順番で誰をみたらいいの?
→真ん中一番後ろ、右奥、左奥、右の中ほど、左の中ほど、右前、左前、目の前、真ん中一番後ろに戻ります。大きくジグザグを描くように、後ろから前へ視線を動かします。

・恥ずかしくて見れないけどどうしたらいいの?
→うなずいて聞いてくれている友達が必ず一人はいます、その人に向かって話します。仲良しの子でもいいです、自然と恥ずかしさが消えてきます。

・こんな気持ちじゃ笑顔になれないけどダメなの?
→ありのままの気持ち、表情でいいよ。話してることが相手に伝わってるなぁと感じたら、自然と笑顔になっているよ。

例えばこれらが「視線」の使い方についての「伝える技術」です。教室でも、たとえこれがTEDの壇上でも全く同じです。知っていれば、話す時に注力する方針、頼る方向性を持てます。知らなければ、ただがむしゃらに話すだけです。「伝える技術」を知っているか知らないかで頑張り方が変わり、発揮できる能力と習得できる経験が変わります

また、「伝える技術」はより小さい時に知るほど、すんなりと身につくことが特徴です。大人になってからプレゼン講習を受けるよりはるかに、習得スピードも質も高く得られます。ただ、その子その子によって、学んですぐにできる子もいれば、出来ない子もいます。ぼんやり頭の片隅に残っていて、数年後に思い出したかのように突然出来る場合もあります。

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そして大切なのは、性格的に人前で話すことが苦手で訓練しても話せないお子さんもいるのですが、それでもいいと私は考えています。人前でうまく話せない理由を知らないまま悶々と自己嫌悪に陥っている状況と、「伝える技術」の存在を知った上で自分はそれを表現するのには向いてないからやめようと判断することの間には、天と地の差があります。

出来ないことはいけないことではなく、適性の差なのだと客観的にとらえ、人前で話す以外の他の方法で表現すれば良いのです。だから、出来なくとも「伝える技術」を知ることに価値はあり、たとえ上手く出来ない自分であっても否定せずに、それでも良いのだと自己肯定できることが大切です

ですから、私の講座に来てくれるお子さんの保護者の皆さんに伝えたいことは、目の前の成果に焦らないで欲しい、どうか長い目でお子さんの様子を見守っていただきたい、ということです。

限られた1〜2時間の講座ではワークの発表にイキイキと取り組むお子さんが目立ちますし、周囲の暖かな評価を得るものです。反面、モジモジと小さな声で、結局一度も人前で伝わるように話せなかったお子さんを見たら、親心として情けないやら、受講料○千円は何のために、、とネガティブな思考に陥りがちで、お子さんを責める気持ちが生まれてしまいます。

でも少し考えてみて欲しいのです。講座で何も発言できなかったお子さんは、何も学ばなかったと思われますか?親に嫌々ながら連れて来られた、高学年の自我に芽生え少しナナメに構えた男の子は、無駄な時間を過ごしたと思いますか?

決してそのようなことはありません。必ず、しっかりと耳で聞き、頭の中にインパクトのある記憶として残しています。いずれ大人になり、人生の勝負所のような機会にいずれ直面したとき、多くの観衆を目の前にした瞬間突然に思い出すはずです。

「一番後ろの人を見て話し始めよう」と。

私が「伝える技術」を子どもたちに知ってもらいたい想いは、そういう長い時間軸の上に描いています。インプットとアウトプットの時間差があるなんて、とても幸せなことです。だって忘れた頃にかつての教え子たちに喜ばれるんですよ?講座を去り別れた後も、子どもたちの成長を何年も密かに楽しみたいと思っています。

その子ごとに現れる形は違っていい、でも必ず何かが子どもたちの心の内側に残り、日々の生活をほんの少しだけ良くしてくれるはず。それが、私が子どもたちに向けて自己紹介のコツ講座を続けている、続けられる理由です。


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ここまでお読みいただいた皆様、ありがとうございます。もし共感していただけたら、そしてお子さんに話してみて少し関心を示してくれたら、ぜひ一度私の講座に遊びに来てください。素敵な時間を一緒に過ごしましょう。


【子どものための 自己紹介のコツ】

(11月、2月開催の「応用編」では話すことに加え「描く」ことで伝える技術を学びます。講座のチラシを描いてくれたプロのイラストレーターさんがゲスト講師で来てくれますよ。)

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自己肯定感の大きさは幸福度そのものと一致している

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いろんな場面で人と接して最近感じることは、結局幸せかどうかの判断はその人本人次第で、他人と比べるものではないのだろうなぁ、ということ。

大切なのは自己肯定感で、自分がやってきたことや今現在のありようを、まぁいろいろあったけとトータル良かったね、自分幸せだよね、と納得できているかどうかに尽きると、感じている。

自己肯定感が低いと何かとモノサシに頼り、年収が平均より上だとか、別荘かどうとか、○○の業界に何人の友人がいるとか、自分の外側にある尺度を持ち出してくる。不安を打ち消すのに懸命だから、外側にあるわかりやすい指標に頼らざるを得ない、ということか。

私は大きいんだ、と自ら語ることは自分の小ささを証明することになってしまう。それは端から見れば明らかなのに、往々にして本人は気づかないことが何より寂しさを感じる。

かたや自己肯定感の高い人は、気持ちがいい。自慢でなく事実を話しながら、何が良いと思ったのか、周囲の反応を気にすることなく感じるままを伝えるからだ。

その根っこには、そもそも自分と相手は違ってていいんだ、という深い割り切りがあるように思う。だから比べないし、嫉妬もしない。常に相手の良いところにフォーカスする。お互いに気持ちの良い時間を過ごすことができるのだ。

自分自身も自己肯定感高くありたいものだと、あらためて思うこのごろだ。それは「足るを知る」ということでもあり、「多様性の理解」とも言えるし、また「自分軸を大切にする」ということでもある。

求めたいのは安易な妥協ではなく、本質的な自己肯定感。なかなか難しいが、それが幸せへの一つの道なのだろう。自己肯定感の大きさは、幸福度そのものと一致している。

「説明に懸命になるほど相手に引かれる」ときの解決策

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Q.商談などで、説明に懸命になるほど相手に悪い印象を与え、引かれてしまうことが多く悩んでいます。何か事前にできる対策はありますか?

先日、知人からこんな相談を受けました。相手との温度差を埋めようとどんなに頑張っても状況が好転せず背中をツーと汗が流れる状況は、私自身も何度か経験しています。大きく3パターンに分けて「要因と対策」をまとめましたので、ご参考にしていただければと思います。

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【要因1】「相手が話す時間」の不足
提案、といっても常に相手は聞き役でなく「話し手」をやりたいのが人間の常。きっかけとなる小さな質問を相手にして、簡単なことでも相手の口に出して言ってもらうこと。

「そうですよね〜」「おっしゃる通りです!」と相手を立てておいて「そこでこんな時は○○」が役立つのですよ、という流れにするといかにも相手が会話をリードしたように錯覚させることができます。

相手に、主体的に話し手として参加いただくと、結果はどうあれプレゼン自体の不満感は相当に減少し、逆に提案内容に対する満足度は高まります。


【要因2】実は提案に自信がない
商品やサービス自体の評価に自分自身が本心から納得できていない時は、ふとした瞬間にその自信の無さが伝わり、また自信の無いことで疑心暗鬼にもなり、「相手が不満に感じているのではないか」と錯覚することがあります。

これに対する解決策は、提案自体を納得できるものに変えるか、心を鬼にして良いものと言い聞かせ自信満々に話すかのいずれかです。当然ながら長期的には前者の方が信頼を高めますね。


【要因3】伝える技術「非言語コミュニケーション力」の不足
一般的にプレゼンテーションの印象の6割は見た目で決まると言われます。つまり、具体的には「表情、視線、身振り手振り、姿勢」を効果的に使うことです。

表情:常に、にこやかに話します。口角を上げると、自然と笑みを含んだ表情になります。鏡で練習すると上手くなります。

視線:相手方の誰かと、一つの文章を言い切るくらいの時間、視線を合わせて話します。次の文になったら、次の人と視線を合わせます。全体ではなく常に誰か一人と話をしている、そんな視線を使うことメッセージが伝わり、説得力が増します。

ジェスチャー:「大きい・小さい」など話の内容を手や体を使って表現します。また両方の手のひらを相手に見せる仕草は、心を開いている印象を与えますので、意識してその時間を長く取ると心理的な距離が縮まります。逆に腕組みは相手を遠ざかる効果がありますので避けます。

姿勢:姿勢も言葉遣いも着飾る必要はありません。適度にリラックスして、プレゼンテーションというより「こんな話があるんですよ、ご参考になれば」くらいのテンションが相手の耳を開いてくれます。

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そもそも提案の場面というのは話し手と聞き手の間に「温度差」がかなりあるという前提に立つことが大切です。事前に準備した「話したいこと」の5割程度も話せれば丁度良い、くらいの気構えが適度なリラックスを生みます。それが相手にも伝わり、さらに内容理解の段階へ入っていきやすくなります。

会話の温度差さえ無くなれば相手に引かれるということはありませんので、そのように環境を整えることができたら、自分が押したい点を堂々と伝えてください。もう成功は間違いなしです。

「コンテンツを持っている人」の話し方 6つの特徴

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誘われたランチや飲み会で最初は相手に合わせ話に付き合い、やや退屈を感じながらもいつかは意味ある話題に変わるとだろうと期待していると時間がだんだん経過していきそのまま終わり、という経験を何度か繰り返した。

特にカイシャ付き合いの飲み会というのは、凡そ上司のグチや社内の人事異動や噂話、せいぜい日本の景気とスポーツの話題くらいである。また、学生時代の友人との久しぶりの再会に気持ちを高ぶらせたものの、意外なほど話がつまらなくアレこんな奴だったっけ、と記憶をたどった経験は皆さんにもあるだろう。

つまり、コンテンツを持たない人との時間はムダに終わる、というのが最近の持論だ。コンテンツというのは自分の手で直接手がけ生み出している、何らかの製品やサービスや機会や文化のことだ。サラリーマンか事業主かどうかは関係なく、コンテンツを生み出す主体である人の話には共通点がある。

1.話題の一つ一つが具体的である。

2.いつも、より良いものを探している。

3.批判や否定よりも、他者を認めることから何かを見出す。

4.相手の理解に合わせて、自分の引き出しを選ぶことができる。

5.どうやるかではなく、何をやるかにフォーカスしている

6.話さない、という選択肢を常に持っている。

こんな人たちとの出会いはいつも刺激的で、必ず何かを得ることができる。最近私が有意義な時間を過ごした相手のそれぞれは、カウンセラーでありマルシェのディレクターであり子供のアトリエの先生であり、また開業を控えた整体師であり広報PRの専門家でありバルーンアーティストであり、若い農家であり街づくりに取り組む主婦だった。

その誰もが自分の手でコンテンツを生み出し、顧客や社会のことをマジメに考え、そして働くことを楽しんでいる。6つの特徴の幾つかを有し、心地よいコミュニケーションを取ることができている。だから専門領域は違えど共通言語を交わすことができ、それは自らの糧となると同時に、異なる何かを自分からも相手に提供しようという自然な想いにつながる。

そのためには自分自身がコンテンツを生み出す人間であり続けることが必要で、程よい自己成長のプレッシャーとなり日々の行動に影響を与える。新たな発想やイノベーションというのは悩みひねり出すものではなく、日常の多様で意味ある付き合いの繰り返しの中で、ふとあるタイミングで姿をあらわすものなのだ、きっと。

せっかく人と人とをつなぐソーシャルメディアがランチや居酒屋の品評会や観光地ギャラリーばかりではもったいない。それも良いが、時折は自らのコンテンツは何かをサラリと示すことが、次の一歩につながっていく。コンテンツを持つ人は、他のコンテンツを持つ人とのつながりに価値を見出す。意識高い系とか言いたい人には言わせておけば良いのだ。自分も有意義な時間を生み出せる一人であるために、磨いていこう。

学校も家庭も、他人と違うことをイイねと言える場でありたい

昨年の今頃「もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は〜」で始まる鎌倉市図書館のつぶやきが話題になったことを覚えているだろうか?

そう、二学期の始まるこの時期は子供達の自殺が多い日として知られるようになり、その逃げ場所の大切さについて考える機会になった。一方、堀江貴文さんが最近のインタビュー記事で学校という空間の違和感についてコメントしている。

堀江貴文氏が大胆な分析「日本人の99%は洗脳されている」 - ライブドアニュース

洗脳、というとどこか自分とかけ離れた世界のような気がするが、同調圧力の強い小社会に日々身を置くことは結果として物事の捉え方や人格形成に強い影響を与える点で、学校もその一つの場としてあながち外れていないように思う。

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私自身は田舎の村に育ち、小学校の同級生は30人程度で1クラスしかない環境だった。ほんの少しだけクラスメイトより勉強がわかっただけで周囲の大人たちから神童扱いされ、結局6年間、神童としての立場を演じ続け同調圧力の産物として手本のように振る舞う苦痛を味わうことになった。

学校で「良い」と評価されることはおおよそ次のようなものだ。授業の内容がよく理解できること、ハキハキと挨拶できること、何事も自分で考え創意工夫すること、様々なものに興味関心を持ち視野を広げること、恥ずかしがらずに他人の前で意見を伝えられること、校則や社会のルールを決して破らないこと、遅刻や欠席をしないこと、人前に立ってリーダーシップを発揮すること、弱い立場の人のことを考えられること、周囲と協調して物事を進められること、等々。

では私たちの周りに、これらが全部できる子供がどれだけいるだろうか。「幻の子ども像」とも言える理想の姿を全ての子供に求めることは、意味あることなのだろうか?学校が多くの子供にとって押し付け気味に理想像を求められる場であり、またそれを是とする同調圧力に満ちていたならそれは洗脳される事に他ならないし、そのような場所に行きたくないと感じるのが防衛本能だろう。また親も同じ事を家庭内で求めているのなら、家庭にも自分の居場所が無いように感じ、これが行き詰まると最悪の悲しい選択肢へとつながっていく。

親として再び学校教育に向き合う時期となり感じることは、学校が子供に対し「他と違うことを価値視する場」であって欲しいということだ。夏休みの課題は、そりゃ全部やった人は頑張ったのだろうけど、自由研究に熱中するあまり漢字の書き取りが半分しかできていなくても、それは子供として十分に学んでいるのだと、トータルで捉えればいい。運動会で列に並べずチグハグなダンスをしている子供は、きっと踊りながら空の雲の不思議を考えているはず、そういう暖かい目線が必要だ。

一方で現実の状況として、いくら授業と学習塾で学力を上げ中高受験で"良い"学校に行き、"良い"大学に合格したところで、それは将来に対する何の保証にもならない。もっと言うと就職活動で名のある企業に入社したとして、それが大人に用意されたレールの上を周囲からの暗黙のプレッシャーに従ったまま進んだ結果であるならば、その事すら人生においてはさほど価値を成さないものだし、まるで他人の人生を生かされるような喪失感を味わうことにもつながり、いずれどこかで破綻する可能性も小さくない。

つまり、他人と同じことを続けることでむしろ人生全体のリスクが高まり、本当に自分が果たしたい役割を見つけることを邪魔してしまう。それよりも子供の自由で伸びやかな発想や、他人と異なるそれぞれの自分らしさを誇りに思えるような「自己肯定感」を身につけることこそが、長い人生を有意義に楽しく過ごす上で大切な要素だ。いま世の中は何かにつけ多様性、ダイバシティの大切さが叫ばれているが学校の中も、子供たちも全く同様だ。

だから、学校の宿題がなかなか終わらなくても、人前でうまく話せなくても、帰りに寄り道して少しの買い食いをしたとしても、大目に見てあげるくらいの寛容さが必要だ。その場その場はコラ!と怒ってしまうかもしれないが、それは型にはまらないから怒るのではなく、他人への迷惑とか、命に関わる危険だとか、納得感ある理由で伝えることだ。他人と同じではないからダメ、ということは子供の成長にも自己肯定感にもつながらない。

さて、我が家の子供も今日が始業式。昨夜は22時くらいまでかかって、今そこでコレが出てくるか?!という宿題の数々を「やらずに行けば〜」という親の意見を背中に受けながらも一応やり切って出かけたわけだが、さて久しぶりの級友と会いどんな事を感じて帰ってくるだろうか。学校が子供にとって他人と異なる自分を認めてくれる居心地の良い場であって欲しいし、また家庭も同様に子供にとっての安心領域を整えることが、親にできる数少ない役割ではないだろうか。