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好評につき増席【12/18(日)】問題解決力を高める 発想力・思考力講座

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告知です。問題解決とかロジカルシンキングは難しくてわからない!アイデア発想なんか大の苦手!という私自身が苦難の末にたどり着いたシンプルな習得メソッドです。ポイントは、楽しみながら学ぶこと。お待ちしています。


◆公開セミナー◆
「問題解決力を高める 発想力・思考力講座」

新規企画や業務革新でより質の高い成果を得たいビジネスパーソン。突き抜けたイノベーション人材を育成したい企業・団体の人事担当者。起業を目指し多彩なアイデアを創造したい専業主婦。本講座のテーマである「発想力・思考力」は天性の資質だけではなく、その方法論を学ぶことで十分に能力を習得することができます。発想力・思考力それぞれについて具体的なケース課題に取り組み、問題解決力を高める講座です。

これまで企業・団体内でのクローズド研修として限定開催してきましたが、今回初めて公開講座として実施します。

対象:社会人(専業主婦含む)、就職を控えた大学生・大学院生

定員:先着12名

受講料:2,000円

日時:2016年12月18日(日曜日)14:00〜16:00

会場:武蔵野プレイス 3F スペースD(武蔵野市境南町2-3-18)
*アクセス JR中央線 武蔵境駅 南口すぐ

申込:専用webサイトもしくは下記メールアドレスまで「氏名、職業、連絡先(携帯電話番号)」をお送りください。

【申込webサイト】

【宛先・問合せ先】 skillnote111@gmail.com



講師:芦沢 壮一(あしざわ そういち)スキルノート代表/ファシリテーター
1997年一橋大学社会学部卒(教育学専攻)。金融機関に入社後、人材開発部門でビジネススキル研修の開発・講師など企業内教育の推進に携わった経験を活かし、自治体や非営利団体・企業等との連携による公開講座や研修を実施。専門はコミュニケーション、ロジカルシンキング、キャリアデザイン、女性活躍支援。「戦略的複業=パラレルキャリア」の実践と普及を目指している。

子ども向けに「自己紹介のコツ」講座をやり続ける理由

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昨年度から土日を使って「子どものための自己紹介のコツ」という講座を時折実施しています。今日は、なぜこのようなことを私がやろうと思ったのか?ということや、子どもたちに対する想いを書いてみます。

私は、人前で話すときの「伝える技術」を子どもたちに知ってもらいたいのです。「伝える技術」を知っていたら人前で話せたのに、知らなかったから上手く出来なかった、という機会が自分自身の子供の頃を振り返ると多々ありました。それは成長のチャンスや共感者を増やす機会の損失だし、もったいない事だと考えています。

学校では、人前で発表する機会は何かと沢山あります。普段の授業やクラスルームに加え、授業参観や教員向けの研究授業、学芸会、夏休みあけの作文スピーチ、などなど。ですから、子どもたちに身近な機会として「自己紹介」を題材にした講座で「伝える技術」を知ってもらえたら、と考えて始めました。

いま話題のアクティブラーニングを使った授業でも、きっと子ども自身が発表する時間は増えていくでしょう。でも、肝心の「伝える技術」そのものは恐らく、学校教育の中できちんとは教えてくれません

教室の壁には「発表は相手の目を見て話そう」「笑顔で話そう」という注意書きは貼られています。でも、誰の目を見るの?いつ、何秒見ればいいの?どの順番で誰をみたらいいの?恥ずかしくて見れないけどどうしたらいいの?こんな気持ちじゃ笑顔になれないけどダメなの???

そうは先生にはきっと聞けないので、わからないのに暗黙のうちに理解したとみなされ、発表はしなきゃいけない。それって、物凄く辛いことですよね?方針のない経験の積み重ねは技術の習得にはつながらず、ただ苦痛の記憶だけが残ります。そして、発表や人前で伝えること自体が嫌いになってしまう子も中には出てくるでしょう。

・誰の目を見るの?
→一番後ろの人を見て、話し始めます。自然と真っ直ぐな姿勢になり皆に聞こえる声が出ます。

・いつ、何秒見ればいいの?
→一人に、一文を話し切るくらいです。5〜7秒が目安です。

・どの順番で誰をみたらいいの?
→真ん中一番後ろ、右奥、左奥、右の中ほど、左の中ほど、右前、左前、目の前、真ん中一番後ろに戻ります。大きくジグザグを描くように、後ろから前へ視線を動かします。

・恥ずかしくて見れないけどどうしたらいいの?
→うなずいて聞いてくれている友達が必ず一人はいます、その人に向かって話します。仲良しの子でもいいです、自然と恥ずかしさが消えてきます。

・こんな気持ちじゃ笑顔になれないけどダメなの?
→ありのままの気持ち、表情でいいよ。話してることが相手に伝わってるなぁと感じたら、自然と笑顔になっているよ。

例えばこれらが「視線」の使い方についての「伝える技術」です。教室でも、たとえこれがTEDの壇上でも全く同じです。知っていれば、話す時に注力する方針、頼る方向性を持てます。知らなければ、ただがむしゃらに話すだけです。「伝える技術」を知っているか知らないかで頑張り方が変わり、発揮できる能力と習得できる経験が変わります

また、「伝える技術」はより小さい時に知るほど、すんなりと身につくことが特徴です。大人になってからプレゼン講習を受けるよりはるかに、習得スピードも質も高く得られます。ただ、その子その子によって、学んですぐにできる子もいれば、出来ない子もいます。ぼんやり頭の片隅に残っていて、数年後に思い出したかのように突然出来る場合もあります。

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そして大切なのは、性格的に人前で話すことが苦手で訓練しても話せないお子さんもいるのですが、それでもいいと私は考えています。人前でうまく話せない理由を知らないまま悶々と自己嫌悪に陥っている状況と、「伝える技術」の存在を知った上で自分はそれを表現するのには向いてないからやめようと判断することの間には、天と地の差があります。

出来ないことはいけないことではなく、適性の差なのだと客観的にとらえ、人前で話す以外の他の方法で表現すれば良いのです。だから、出来なくとも「伝える技術」を知ることに価値はあり、たとえ上手く出来ない自分であっても否定せずに、それでも良いのだと自己肯定できることが大切です

ですから、私の講座に来てくれるお子さんの保護者の皆さんに伝えたいことは、目の前の成果に焦らないで欲しい、どうか長い目でお子さんの様子を見守っていただきたい、ということです。

限られた1〜2時間の講座ではワークの発表にイキイキと取り組むお子さんが目立ちますし、周囲の暖かな評価を得るものです。反面、モジモジと小さな声で、結局一度も人前で伝わるように話せなかったお子さんを見たら、親心として情けないやら、受講料○千円は何のために、、とネガティブな思考に陥りがちで、お子さんを責める気持ちが生まれてしまいます。

でも少し考えてみて欲しいのです。講座で何も発言できなかったお子さんは、何も学ばなかったと思われますか?親に嫌々ながら連れて来られた、高学年の自我に芽生え少しナナメに構えた男の子は、無駄な時間を過ごしたと思いますか?

決してそのようなことはありません。必ず、しっかりと耳で聞き、頭の中にインパクトのある記憶として残しています。いずれ大人になり、人生の勝負所のような機会にいずれ直面したとき、多くの観衆を目の前にした瞬間突然に思い出すはずです。

「一番後ろの人を見て話し始めよう」と。

私が「伝える技術」を子どもたちに知ってもらいたい想いは、そういう長い時間軸の上に描いています。インプットとアウトプットの時間差があるなんて、とても幸せなことです。だって忘れた頃にかつての教え子たちに喜ばれるんですよ?講座を去り別れた後も、子どもたちの成長を何年も密かに楽しみたいと思っています。

その子ごとに現れる形は違っていい、でも必ず何かが子どもたちの心の内側に残り、日々の生活をほんの少しだけ良くしてくれるはず。それが、私が子どもたちに向けて自己紹介のコツ講座を続けている、続けられる理由です。


***


ここまでお読みいただいた皆様、ありがとうございます。もし共感していただけたら、そしてお子さんに話してみて少し関心を示してくれたら、ぜひ一度私の講座に遊びに来てください。素敵な時間を一緒に過ごしましょう。


【子どものための 自己紹介のコツ】

(11月、2月開催の「応用編」では話すことに加え「描く」ことで伝える技術を学びます。講座のチラシを描いてくれたプロのイラストレーターさんがゲスト講師で来てくれますよ。)

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自己肯定感の大きさは幸福度そのものと一致している

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いろんな場面で人と接して最近感じることは、結局幸せかどうかの判断はその人本人次第で、他人と比べるものではないのだろうなぁ、ということ。

大切なのは自己肯定感で、自分がやってきたことや今現在のありようを、まぁいろいろあったけとトータル良かったね、自分幸せだよね、と納得できているかどうかに尽きると、感じている。

自己肯定感が低いと何かとモノサシに頼り、年収が平均より上だとか、別荘かどうとか、○○の業界に何人の友人がいるとか、自分の外側にある尺度を持ち出してくる。不安を打ち消すのに懸命だから、外側にあるわかりやすい指標に頼らざるを得ない、ということか。

私は大きいんだ、と自ら語ることは自分の小ささを証明することになってしまう。それは端から見れば明らかなのに、往々にして本人は気づかないことが何より寂しさを感じる。

かたや自己肯定感の高い人は、気持ちがいい。自慢でなく事実を話しながら、何が良いと思ったのか、周囲の反応を気にすることなく感じるままを伝えるからだ。

その根っこには、そもそも自分と相手は違ってていいんだ、という深い割り切りがあるように思う。だから比べないし、嫉妬もしない。常に相手の良いところにフォーカスする。お互いに気持ちの良い時間を過ごすことができるのだ。

自分自身も自己肯定感高くありたいものだと、あらためて思うこのごろだ。それは「足るを知る」ということでもあり、「多様性の理解」とも言えるし、また「自分軸を大切にする」ということでもある。

求めたいのは安易な妥協ではなく、本質的な自己肯定感。なかなか難しいが、それが幸せへの一つの道なのだろう。自己肯定感の大きさは、幸福度そのものと一致している。

「説明に懸命になるほど相手に引かれる」ときの解決策

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Q.商談などで、説明に懸命になるほど相手に悪い印象を与え、引かれてしまうことが多く悩んでいます。何か事前にできる対策はありますか?

先日、知人からこんな相談を受けました。相手との温度差を埋めようとどんなに頑張っても状況が好転せず背中をツーと汗が流れる状況は、私自身も何度か経験しています。大きく3パターンに分けて「要因と対策」をまとめましたので、ご参考にしていただければと思います。

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【要因1】「相手が話す時間」の不足
提案、といっても常に相手は聞き役でなく「話し手」をやりたいのが人間の常。きっかけとなる小さな質問を相手にして、簡単なことでも相手の口に出して言ってもらうこと。

「そうですよね〜」「おっしゃる通りです!」と相手を立てておいて「そこでこんな時は○○」が役立つのですよ、という流れにするといかにも相手が会話をリードしたように錯覚させることができます。

相手に、主体的に話し手として参加いただくと、結果はどうあれプレゼン自体の不満感は相当に減少し、逆に提案内容に対する満足度は高まります。


【要因2】実は提案に自信がない
商品やサービス自体の評価に自分自身が本心から納得できていない時は、ふとした瞬間にその自信の無さが伝わり、また自信の無いことで疑心暗鬼にもなり、「相手が不満に感じているのではないか」と錯覚することがあります。

これに対する解決策は、提案自体を納得できるものに変えるか、心を鬼にして良いものと言い聞かせ自信満々に話すかのいずれかです。当然ながら長期的には前者の方が信頼を高めますね。


【要因3】伝える技術「非言語コミュニケーション力」の不足
一般的にプレゼンテーションの印象の6割は見た目で決まると言われます。つまり、具体的には「表情、視線、身振り手振り、姿勢」を効果的に使うことです。

表情:常に、にこやかに話します。口角を上げると、自然と笑みを含んだ表情になります。鏡で練習すると上手くなります。

視線:相手方の誰かと、一つの文章を言い切るくらいの時間、視線を合わせて話します。次の文になったら、次の人と視線を合わせます。全体ではなく常に誰か一人と話をしている、そんな視線を使うことメッセージが伝わり、説得力が増します。

ジェスチャー:「大きい・小さい」など話の内容を手や体を使って表現します。また両方の手のひらを相手に見せる仕草は、心を開いている印象を与えますので、意識してその時間を長く取ると心理的な距離が縮まります。逆に腕組みは相手を遠ざかる効果がありますので避けます。

姿勢:姿勢も言葉遣いも着飾る必要はありません。適度にリラックスして、プレゼンテーションというより「こんな話があるんですよ、ご参考になれば」くらいのテンションが相手の耳を開いてくれます。

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そもそも提案の場面というのは話し手と聞き手の間に「温度差」がかなりあるという前提に立つことが大切です。事前に準備した「話したいこと」の5割程度も話せれば丁度良い、くらいの気構えが適度なリラックスを生みます。それが相手にも伝わり、さらに内容理解の段階へ入っていきやすくなります。

会話の温度差さえ無くなれば相手に引かれるということはありませんので、そのように環境を整えることができたら、自分が押したい点を堂々と伝えてください。もう成功は間違いなしです。

「コンテンツを持っている人」の話し方 6つの特徴

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誘われたランチや飲み会で最初は相手に合わせ話に付き合い、やや退屈を感じながらもいつかは意味ある話題に変わるとだろうと期待していると時間がだんだん経過していきそのまま終わり、という経験を何度か繰り返した。

特にカイシャ付き合いの飲み会というのは、凡そ上司のグチや社内の人事異動や噂話、せいぜい日本の景気とスポーツの話題くらいである。また、学生時代の友人との久しぶりの再会に気持ちを高ぶらせたものの、意外なほど話がつまらなくアレこんな奴だったっけ、と記憶をたどった経験は皆さんにもあるだろう。

つまり、コンテンツを持たない人との時間はムダに終わる、というのが最近の持論だ。コンテンツというのは自分の手で直接手がけ生み出している、何らかの製品やサービスや機会や文化のことだ。サラリーマンか事業主かどうかは関係なく、コンテンツを生み出す主体である人の話には共通点がある。

1.話題の一つ一つが具体的である。

2.いつも、より良いものを探している。

3.批判や否定よりも、他者を認めることから何かを見出す。

4.相手の理解に合わせて、自分の引き出しを選ぶことができる。

5.どうやるかではなく、何をやるかにフォーカスしている

6.話さない、という選択肢を常に持っている。

こんな人たちとの出会いはいつも刺激的で、必ず何かを得ることができる。最近私が有意義な時間を過ごした相手のそれぞれは、カウンセラーでありマルシェのディレクターであり子供のアトリエの先生であり、また開業を控えた整体師であり広報PRの専門家でありバルーンアーティストであり、若い農家であり街づくりに取り組む主婦だった。

その誰もが自分の手でコンテンツを生み出し、顧客や社会のことをマジメに考え、そして働くことを楽しんでいる。6つの特徴の幾つかを有し、心地よいコミュニケーションを取ることができている。だから専門領域は違えど共通言語を交わすことができ、それは自らの糧となると同時に、異なる何かを自分からも相手に提供しようという自然な想いにつながる。

そのためには自分自身がコンテンツを生み出す人間であり続けることが必要で、程よい自己成長のプレッシャーとなり日々の行動に影響を与える。新たな発想やイノベーションというのは悩みひねり出すものではなく、日常の多様で意味ある付き合いの繰り返しの中で、ふとあるタイミングで姿をあらわすものなのだ、きっと。

せっかく人と人とをつなぐソーシャルメディアがランチや居酒屋の品評会や観光地ギャラリーばかりではもったいない。それも良いが、時折は自らのコンテンツは何かをサラリと示すことが、次の一歩につながっていく。コンテンツを持つ人は、他のコンテンツを持つ人とのつながりに価値を見出す。意識高い系とか言いたい人には言わせておけば良いのだ。自分も有意義な時間を生み出せる一人であるために、磨いていこう。

学校も家庭も、他人と違うことをイイねと言える場でありたい

昨年の今頃「もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は〜」で始まる鎌倉市図書館のつぶやきが話題になったことを覚えているだろうか?

そう、二学期の始まるこの時期は子供達の自殺が多い日として知られるようになり、その逃げ場所の大切さについて考える機会になった。一方、堀江貴文さんが最近のインタビュー記事で学校という空間の違和感についてコメントしている。

堀江貴文氏が大胆な分析「日本人の99%は洗脳されている」 - ライブドアニュース

洗脳、というとどこか自分とかけ離れた世界のような気がするが、同調圧力の強い小社会に日々身を置くことは結果として物事の捉え方や人格形成に強い影響を与える点で、学校もその一つの場としてあながち外れていないように思う。

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私自身は田舎の村に育ち、小学校の同級生は30人程度で1クラスしかない環境だった。ほんの少しだけクラスメイトより勉強がわかっただけで周囲の大人たちから神童扱いされ、結局6年間、神童としての立場を演じ続け同調圧力の産物として手本のように振る舞う苦痛を味わうことになった。

学校で「良い」と評価されることはおおよそ次のようなものだ。授業の内容がよく理解できること、ハキハキと挨拶できること、何事も自分で考え創意工夫すること、様々なものに興味関心を持ち視野を広げること、恥ずかしがらずに他人の前で意見を伝えられること、校則や社会のルールを決して破らないこと、遅刻や欠席をしないこと、人前に立ってリーダーシップを発揮すること、弱い立場の人のことを考えられること、周囲と協調して物事を進められること、等々。

では私たちの周りに、これらが全部できる子供がどれだけいるだろうか。「幻の子ども像」とも言える理想の姿を全ての子供に求めることは、意味あることなのだろうか?学校が多くの子供にとって押し付け気味に理想像を求められる場であり、またそれを是とする同調圧力に満ちていたならそれは洗脳される事に他ならないし、そのような場所に行きたくないと感じるのが防衛本能だろう。また親も同じ事を家庭内で求めているのなら、家庭にも自分の居場所が無いように感じ、これが行き詰まると最悪の悲しい選択肢へとつながっていく。

親として再び学校教育に向き合う時期となり感じることは、学校が子供に対し「他と違うことを価値視する場」であって欲しいということだ。夏休みの課題は、そりゃ全部やった人は頑張ったのだろうけど、自由研究に熱中するあまり漢字の書き取りが半分しかできていなくても、それは子供として十分に学んでいるのだと、トータルで捉えればいい。運動会で列に並べずチグハグなダンスをしている子供は、きっと踊りながら空の雲の不思議を考えているはず、そういう暖かい目線が必要だ。

一方で現実の状況として、いくら授業と学習塾で学力を上げ中高受験で"良い"学校に行き、"良い"大学に合格したところで、それは将来に対する何の保証にもならない。もっと言うと就職活動で名のある企業に入社したとして、それが大人に用意されたレールの上を周囲からの暗黙のプレッシャーに従ったまま進んだ結果であるならば、その事すら人生においてはさほど価値を成さないものだし、まるで他人の人生を生かされるような喪失感を味わうことにもつながり、いずれどこかで破綻する可能性も小さくない。

つまり、他人と同じことを続けることでむしろ人生全体のリスクが高まり、本当に自分が果たしたい役割を見つけることを邪魔してしまう。それよりも子供の自由で伸びやかな発想や、他人と異なるそれぞれの自分らしさを誇りに思えるような「自己肯定感」を身につけることこそが、長い人生を有意義に楽しく過ごす上で大切な要素だ。いま世の中は何かにつけ多様性、ダイバシティの大切さが叫ばれているが学校の中も、子供たちも全く同様だ。

だから、学校の宿題がなかなか終わらなくても、人前でうまく話せなくても、帰りに寄り道して少しの買い食いをしたとしても、大目に見てあげるくらいの寛容さが必要だ。その場その場はコラ!と怒ってしまうかもしれないが、それは型にはまらないから怒るのではなく、他人への迷惑とか、命に関わる危険だとか、納得感ある理由で伝えることだ。他人と同じではないからダメ、ということは子供の成長にも自己肯定感にもつながらない。

さて、我が家の子供も今日が始業式。昨夜は22時くらいまでかかって、今そこでコレが出てくるか?!という宿題の数々を「やらずに行けば〜」という親の意見を背中に受けながらも一応やり切って出かけたわけだが、さて久しぶりの級友と会いどんな事を感じて帰ってくるだろうか。学校が子供にとって他人と異なる自分を認めてくれる居心地の良い場であって欲しいし、また家庭も同様に子供にとっての安心領域を整えることが、親にできる数少ない役割ではないだろうか。

「終わった人」になりたくなければ、いま始めよう

夏休みはケータイの電波も弱々しい森の中のキャンプ場で5日間、のんびりと過ごしました。子供たちと森の中を探検したり川で魚取りをしたりスモークチーズを作ったりしながら、合間の時間に読んだのが「終わった人」(内館牧子著)。深く共感しながらも「終わった人」が今後も大量生産されていくであろう社会は一体どうなってしまうのか、とハラハラしました。ご紹介を兼ねて感想をお伝えします。

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これは長年の銀行勤めを定年退職した主人公が、居場所無くやり甲斐のない日々に苦しみながらも、生き方を模索し様々な出来事に遭遇し、気づきを得ていくお話です。読み進めながら思わず書き留めたフレーズがこちら。


・夫が現役時代に自分のことばかり考えていた間、妻も自分の生き方やコミュニティを固めてきたのだ。

・定年というのは、夫も妻も不幸にする

・それにしても、本当にやることがない。本当にない。人にとって何が不幸かと言って、やることがない日々だ。

・サラリーマンは、人生のカードを他人に握られる。配属先も他人が決め、出世するのもしないのも、他人が決める。

・定年になった男たちは家庭に戻るか、趣味に走るしかないんだなって、実感するよ。

・暇だ、とかやることがない、という言葉で誤魔化してきたが、所属する場のない不安は、自分の存在を危うくするほど恐いものだった。

・今まで誇りにし、俺自身を育ててくれたものがマイナスになるのはおかしい。学歴や職歴は俺を作っている。俺らしさはそこにある。

・「職場と墓場の間」に何もない人生が、いかにつまらないか。それは俺の身にしみている。


この本は出版から約一年となる今も読者がジリジリと増え続けていて、本についている感想ハガキが通常の何倍も送られてきているのだそうです。読者の多くは主人公と同じ定年退職を経験したサラリーマンで、まるで自分のことを言い当てられたようだ、というコメントが多いのだとか。

そう、物語というよりはほとんどドキュメンタリーに近い仕上がりで、作者はさぞかし多くの取材を重ねてリアリティーをこの作品に与えたのだろうと感じます。そして大切なことは、「終わった人」はこれからもどんどん大量生産されていき、それは決して社会にとって良くない影響を与える要因となっていくだろう、ということです。

定年を迎えてから人生のリアリティーに気づくと、そこから過去40年を検証し直してから、その先20年かそこらをデザインすることになります。身体に染み付いた価値観や経験やプライドなど、捨てたり変えたりした方が良いものを柔軟に取り入れることができる人は人生を生き直す喜びを感じることが出来るでしょうが、現実には多くの方が変化を受け入れることができず「終わった人」と呼ばれる存在になってしまいます。

これは単純にサラリーマンが良くなくて事業主が良い、という話ではなくて、働くことに一辺倒になることで人生のバランスを崩し、大切にすべき様々な要素をその時々に置き去りにしてきたことの反動が、定年後一気に押し寄せてくる、ということなのだと理解しています。

働くことはある意味「社会」を遠ざけることができる、意識しなくても生きていける免罪符の要素があります。仕事だから他より優先するべし、仕事を頑張ってるから評価される、そういう積み重ねと表裏一体で、家族の中の役割や地域で得られたはずの立ち位置を一つずつ失っていくのです。

仕事を疎かにして良い、収入を軽視するという意味ではなく、それらと程よいバランスを取って「両取り」する器用さが本来は必要なのに、それを「仕事だから」という理由でサボってきた、そのしわ寄せが定年後に形になって表れる、だからそれに気づいていた家族からは見放される、そういうことなんだと思います。

これらのことに早く気づき、30代40代のうちから働くことに頼り切りにならない、実りある人生を意識して創っていく、それがきっと大切なのだとこの本を通じて気づかされました。かなり宣伝記事風になりましたが、1,700円は決して高くない価値のある一冊として推薦します、ぜひ。

終わった人

終わった人