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「2枚目の名刺」は本業に役立たなくたっていい

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最近なんだか「複業」ブームである。すなわちパラレルキャリアであり、サードプレイスであり、2枚目の名刺などである。そんな「二足の草鞋(わらじ)」的な単語が日々webメディアだけでなくテレビの地上波でも行き交うようになったのは少なからぬ驚きだ。私自身は長らくその価値についてお伝えしつつ自身でも実践してきたゆえ、ついに社会が動くのかとやや興奮気味に嬉しい気分でもある。

2枚目の名刺の価値とは?

しかし、ちょっと待った!と言いたいのだ。2枚目の名刺は「本業に貢献しなければいけないのか?」「本業に役立つから意味があるのか?」ということ。よく聞かれる文脈はこうだ。

・サラリーマンが、所属する組織の外で別の役割を持つ働き方がいま、注目されている。

NPO支援を通じたボランティア、プロボノなどの立場で社会的な課題に関わることで、視野が広がり自分自身の保有スキルや課題を客観視できる。

・社外の多様な人材との接点が生まれ、新たな人脈や価値観を得られる。

・本業では経験しづらいスピーディーな運営や創造的な役割を担うことで、成功体験を得たり新たな能力開発につながる。

・ひいては、本業における仕事のパフォーマンスや組織運営に良い影響を与える。

・だから「2枚目の名刺」は良いので、皆さんチャレンジしましょう。

筋は通っている。複線的な働き方の魅力を伝えてはいる、でも何かスッキリしないのだ。このモヤモヤの理由は何かと、しばらく考えてみて辿り着いたのは、やや乱暴な言い方をすると「大きなお世話」という一言だ。

一方的な就業規則をタテに活動に反対されるのは困るけれど、かといって「あなたのプライベートの挑戦は我が社のエネルギーになるのだ」と言われても、正直むず痒い。

二面性が心地よい理由

元々誰しも「二面性」を持つことは一つのアイデンティティから離れて心地良いリラックスの時間になったり、自分だけの世界で羽を伸ばすことでストレス解消につながっている。

カイシャ関係とは全く異なる人たちに囲まれて、カイシャの自分と全く違う立場役割を、カイシャの知らないところで演じるから、それが楽しいと感じているはずだ。趣味の世界や、地域でのお付き合いの良さはそこにある。複業・パラレルキャリアもその点は全く変わらない。

だから、カイシャは個人の挑戦を遠くから温かく見守ってくれればそれでいい。実は「見て見ぬ振り」というのは絶妙な温度感なのだ。だからカイシャよ、どうか焦らないように。もはや社員の全てを把握してコントロールしようだなんて、それが幻想であるとこは誰しもわかっているはず。せっかく芽吹き始めた社員の主体的で創造的なキャリア形成の若芽を摘むことのないように、どうか配慮して欲しいと願うのだ。

本当の効果は数年後にやってくる

つまり、短期的な成果を求めることはナンセンスだということ。「我が社は複業を積極的に認めたので、新たな成果が本業で発揮されました」とは簡単にはならない。一つの事業をゼロから育て何らかインパクトある成果を得るには、数ヶ月や一年そこらでは到底難しいことで、また逆にそれくらい高い難易度の事業に取り組むことこそが、目先にとらわれず本質的な価値を追求できる2枚目の名刺の魅力なのだ。

一連の動きを通じて世の中の働き方の変化が良い方向に向かっていることは事実。だからこそ、一時のブームで消え去ることのないように「2枚目の名刺」活動に対するアプローチを間違えることなくしかし大胆に進めて行く、そんな局面にあると考えている。

個人も、組織も、成果を焦らないこと。時間を度外視した先に、本当に価値ある何かがあるはずだ。それは私たちが長きにわたる経済至上主義の世の中で忘れ去ってきた、見覚えのある「何か」かもしれない。

そして2枚目の名刺において大切にしたいこと、それは自分が心から好きで、使命感に駆られて自分の手で何としてもやりとげたいと強く感じるそんな「役割」を見つけることだ。それはもしかすると天職につながる道すじなのかもしれないし、それを確実に極めていくことでいずれ本業ともごく自然に影響し合うことだろう。その時、二つの名刺は初めて一体化し、自らの主体的なキャリアが実現していくきっかけとなるのだ。

「アインシュタインよりディアナ・アグロン」に絶望したならそっとテレビのスイッチを切ろう

昨今、テレビや新聞から流される情報のクオリティが下がったと言われるけれど、それを批判したり問題視する時期はとうに過ぎていると、数年前くらいから感じている。もはやそういう程度のものだと割り切った付き合いをしていく、社会の片隅で偏りのある情報媒体の一つ一つにすぎない。

マスメディアがマス=大衆の総意を代弁し共有する機能は、おそらくバブル崩壊と同時に失っていた。ただ私たちがその後も「社会は(経済的に)また良くなるはず」と妄想を抱き続けるのに乗じて、テレビや新聞があたかもそれが可能であるかのように伝え、それを牽引するという役割を自認し誇大に表現してきただけのことだ。

マスメディア全体を覆う価値観というのはテレビ新聞各社おおよそどこにも共通している、たった一つのモノラルで旧来型の視点だ。

甲子園や大学駅伝に余計な友情ドラマを織り込み、

災害があれば遠慮なく避難所に上がり込み涙を伝え、

地域で事件があれば卒業アルバム写真をしらみつぶしに探し出し、

株価や消費の回復が社会活性化の目安のように日々伝え、

子供達に何かあれば学校や親に子育ての責任をむやみに振り向け、

かと思えば価値の低い娯楽情報を我れ先にと伝え、

そうしてマスメディアが先頭に立ち「社会をより悪く誘導してきた」とすら感じている。

HKTの新曲「アインシュタインよりディアナ・アグロン」の歌詞が女性蔑視だとして批判を集め、これに大学の学長が痛快なコメントを残し話題になっている。

◆女の子はアインシュタインなんか知らなくていい?| 恵泉女学園大学

一連の企画者達はまさにバブル時代のマスメディア的発想を成功体験とし、それを再びマスメディアに載せることを繰り返しているわけで、その意味で価値観は全くブレていないと言える。女性蔑視の歌詞はバブル的発想としては何の疑いもなく作られたものであろうし、結果炎上しても自らの価値観のズレを疑うことはないだろう。(事の本質は重大な人権問題ですらあると私は捉えているが)

おそらく今回の女性蔑視問題にとどまらず、様々な「実態とのズレ」をマスメディアは今後も提示し続けることだろう。なぜなら、マスメディアを構成する人たちの思想、価値観がバブル時代のそれを今なお追いかけ続けているようにしか見えないからだ。

私たち一人一人が現実社会で感じていることや考えていることにマスメディアは追いついておらず、数年の時差を持ってそれが真実と信じ伝え続けている。それは自らが変わることを怖がっている、ということなのかもしれない。無難に役割を続けようと思えば思うほど、社会の変化から取り残されていく。

情報過多社会は、まず目にする情報を自分で選別することから始まる。だからもし「アインシュタインよりディアナ・アグロン」の歌詞に深く絶望したなら、新聞の購読を止め、テレビのスイッチをそっと切ることを、お勧めしたい。

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キャリアの中心に「仕事」を置くのはそろそろ止めた方がよい

キャリア形成の中心に何を置くか。そりゃ仕事でしょ、それ以外何があるのという声はあるし、その気持ちもわかる。かつての私自身もそうだった。身を粉にして深夜まで働き、その結果得られた成果が自分自身のキャリア形成に寄与するものだと信じて疑わなかった。でも、それは違う。

話の前提として、ここで言う「仕事」とはカイシャ勤めなど組織に従事している人の役割を指す。起業家や個人事業主、また社会的事業に関わる人たちは少し違う。業を生み出すのは主体的なキャリア形成そのものだ。働きすぎ、使命感と生活のバランスなどの課題はあるけれど。

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本題に戻る。キャリアの中心に仕事を置く、というのは極論、キャリア形成をサボっている、手抜きしているのと同じ。組織の専門性や、ましてや人事異動や役割変更に自分自身のキャリア形成を委ねるのは、悪い意味でギャンブルそのもの。転勤が当たり前、という感覚はその意味で前時代的ですらある。

ゴールデンウィークに旅行や娯楽も良いだろう。しかし、会社が休みだから目一杯遊ぼう、という心理状態そのものが既に組織や仕事に従属的であることに、気づくことができるかどうか。働かされる人生、休まされる人生が面白いと思うなら、そのままで良い。それが嫌なら、自分で決めて変えていくことだ。

常に人生の中心には「自分自身」がある方が、長期的にはより多くの幸せを感じることができる、と考えている。主体的に稼ぎ、主体的に地域に関わり、主体的に家庭を担い、主体的に遊び、主体的に学び、主体的に休む。それらを続けることが、人生を自分の望む方向へ近づけてくれる。

繰り返すが、キャリアの中心に、人生の中心に仕事を置くのはもうやめた方が良い。仕事は人生を構成する要素の一部に過ぎない。また、そうでなければ、すぐに人生は仕事や組織や上司の言いなりとなってしまう、そんな性質をよく理解しておくことだ。

これらを実行するには、相当の覚悟と強い意思が必要だ。でも乗り越えることができたなら、身の廻りに仕事より遥かに大切なことが山のようにあることに、自分が果たすべき本当の役割の存在に、はたと気づくだろう。その時、私たちは人生をようやく自分のものとすることができるのだ。

PDCAにこだわる人は仕事ができない

一人の人間の主観ですが、心から感じていることを。

PDCA大事だから!」(Plan-Do-Check-Action)

わかる。理屈としてはわかるんだけど。でも残念ながらコレに過度にこだわる人で、仕事できるな、と感じた人に今まで出会うことはありませんでした。

「自分の仕事を標準化!可視化!誰に代わっても落ちのないように!」

これも同じ。これにこだわる人で、優れたバランス感覚やアイデアを持ってる人はいませんでした。マニュアル化を崇拝し、逆に暗黙知を気持ち悪がりとにかく全てを明らかにしよう、という思考。

「会議。皆で共有しよう、全部!」

「作業計画書で、毎日進捗確認!」

「数値化して、数値化して、数値化・・」


どれも、そういう発想に至る思考はわかるし、そう言いたい気持ちも理解できます。しかし何が問題かというとそれらは全て成果に繋がらない行動で、今後の社会ではその傾向が強まると考えられるからです。

それは、理詰めの左脳的思考、プロセスというのはいずれ必ず他のより優れた何かに置き換わる運命にあるからです。効率化や標準化を頑張るというのは極論、私という戦力は単純労働(Labor)であって代替可能なんですよと主張していることと全く同じ意味にあることを、そろそろ理解していかなければならない時代に私たちは生きています。

先日、人工知能の「アルファ碁」が韓国のトップ棋士に圧勝しました。その結果だけでなく勝ち方が衝撃的で、人間が2,000年以上かけて研究し蓄積してきた「定石」(局面ごとの最有力な指し手)を根本から否定する手を繰り出し、対応策すら無いような勝ちをおさめました。

仕事においても同じ事が近い将来に起こり、多くの職業がAIを含むシステムに取って代わると言われています。その進化のスピードは私たちが考えている以上に早く、本当に近い将来そんな社会が実現するのではないかと思います。効率化や標準化を頑張るというのは極論、AIと素手で闘おうということと同じ、無為な作業なのです。

私たちが価値ある仕事を、役割を続けたいのならば、まず何に力を集中するのか正しい判断をすることが必要です。最も愚かな努力とは、間違った方向に向かって全力で走ることです。走り出す前に正しい方向をきちんと把握し、そして走りながら何をするのか、価値をどこに見出すのか、想像力・創造力が求められます。

反面、右脳的な思考の価値が、今後ますます高まると考えています。非定型、ゆらぎ、曲線、ランダム、0から1、多様性、感性、感情、肌感覚、自然物、etc.そういったものの中に、何にも取って代わることのできない価値の発見と、私たちの役割を見出すことが出来るはずです。

それらの中には、今まで私たちが意味のあるものと捉えていなかったものも含みます。これまでは「仕事」と信じて疑わなかったものがそうでなくなり「遊び・ムダ」と思っていたものが価値ある仕事になる。パラダイムシフトが本当に現実化しつつあることを日々感じます。そこにはPDCAは要りませんし、むしろPDCAサイクルを壊すことで初めて新たな気づきの端緒を見出すことができます。

そんな妄想を頭の中で描きながら週末を迎えます。果たして5年後、10年後がどんな社会になっているのか本当に楽しみです。




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寄稿しました(プレゼンテーションで使える5つの会話術)

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昨年末からwebメディア「街角のクリエイティブ」で時折コラムを書かせていただいています。

他の媒体で書くことで文章表現の細かな点に気を配るようになりました。何より変わったことは、他人の優れた記事を「どんな風にして書いているのだろう」という視点で読むことが増えた点です。

また、刹那的にバズることを目標とせず、本質的に意味あることを、伝えたい特定の相手を想定して書くことを目指しています。

今週公開の記事はこちら、セミナーなど人前で講師や司会として話す方向けの話題ですが、日常会話やちょっとしたプレゼンにも応用できます。自分自身がセミナー講師として体験し蓄積してきた気づきを、少しでも役立てていただければと思い書きました、ぜひどうぞ。

【今すぐ実践できる】プレゼンテーションで使える5つの会話術 | 理論 | 街角のクリエイティブ

「うちの会社」と言い続ける自己催眠から脱する時は今だ

「うちの会社は〜」
「うちの会社に〜」
「うちの会社で〜」

何気なくサラリーマンが使っている「うちの」会社。その何気ない一言にはちょっとした、無視できない意味が含まれている、と考えている。


あなたが新入社員なら「うちの会社」には、入社の喜びや戸惑いが含まれているだろう。

あなたがベテラン社員なら「うちの会社」には、自ら築いてきた実績に対する自信と若干の所有意識が含まれているだろう。


その会社がスタートアップ間もない企業なら、「うちの会社」には社会を変革する強い意思と溢れる情熱が含まれているだろう。

その会社が有名大手企業なら、「うちの会社」には大きな誇りと少しのおごりが含まれているだろう。

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さて、あなたが経営者であるならば、間違いなく「うちの会社」はあなたの会社だ。自由に発言し「うちの会社」を発展させればよい。

そしてもしあなたが一従業員であるならば、その会社のことを「うちの会社」と呼ぶことが適切なのかどうか、一度立ち止まってみることをお勧めしたい。


「うち(自分)」と「会社」の間にあるもの、つなげているモノはいったい何なのか。


一般的に雇用主は、従業員からの労務や知識の提供に対して見合った報酬を支払う。基本的には会社とはそれだけの関係だ。

しかし現実には、組織に所属することにはそれ以上の意味が含まれている。「一個人の○○さん」から「☆☆会社の○○さん」に自他ともにラベリングする。それは居場所になったり、ときに社会的信用と見なされたりする。


今まではそれで良かった。


それが仕事依存、多少のやりがい依存になろうともそれに報いる人事や報酬により幸せなバランスが取れていたし、定年退職した後もOB・OG会やら○○年組同窓会やらネットワークがあり、そして死ぬまでずっと「うちの会社」であり続けてくれた。

しかし時間が流れ、雇用関係や働くことへの意味付けは変化している。フリーアドレス制、在宅勤務、ノマドワークなど多様な働き方が叫ばれ、実現している。それらの本当の意味は仕事の効率化などではなく、「うち(自分)」と「会社」の距離を、物理的にだけでなく精神的に取ることにあるのだと、私は考えている。

これから大切なのは、「うち=自分」が何を出来るのか、客観的な能力とそれを他者に説明できることにある。所属の如何に関わらず発揮できる具体的なスキル。それを形作り、伝えるセルフブランディングの力。「会社」には自分の持つ能力の一部を提供しその対価を得るという、原点の関係に戻りつつある。それは既に所属とは異なる対等の関係性だ。

同時にその客観的にも証明された能力は他の組織や、あるいは地域やコミュニティにも並行して提供できる独立したスキルへと成熟させていくことができる。自分の居場所や役割が一つの会社に留まらずハイブリッド化していく、そういう社会が既に到来している。一ヶ所への盲目的な所属意識は薄くなり、すると必然的に「うちの会社」という表現は適さなくなる。


アイデンティティの自立、とか小難しいことを声高に言うつもりはない。ただ、常套句のように「うちの会社」と言い続けることはある種の自己催眠に陥り、いま述べたような社会の劇的な変化に鈍感になっていく。だから少し立ち止まってみたらどうかな、という提案だ。

かくいう私自身も、かつては「うちの会社」を多用していたし、ある時に妻から指摘されるまでその違和感の存在にすら気づかなかった。消化するのに3年ほどかかったが遅すぎることはない、と今実感している。


新社会人となった皆さんへ。組織に適応することだけに賢明にならず、こんな事を頭の片隅に置いて欲しい。会社人生よりも人生は遥かに、長いのだ。


*2017.4.13 改題・改編



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【開催報告】「子どものための自己紹介のコツ」講座

2015年度に初めて企画し実施しました「子どものための自己紹介のコツ」講座。開催の支援をいただいた東京都府中市への開催報告内容をこちらにシェアします。

これまでは専らビジネスパーソン向けにブレゼン技術や多様なキャリア形成、論理的思考力などについてセミナーを開催してきましたが、小学生を対象に教育の一端を担う経験は、私自身が多くの学びを得ることができました。

そしてたいへんありがたいことに、ご参加いただいた児童・保護者の皆さんから「楽しく、あっという間の90分だった」「また参加したい」「相手の目を見ること、ジェスチャーの大切さがわかった」「大人も参考になる内容だった」「次年度もぜひ継続して欲しい」など、多数のエールをいただきました。

昨今、文部科学省を頂点とする義務教育の世界では能動的な学び、アクティブラーニングへの関心が日々高まっています。聴くだけでない双発的なコミュニケーションの根本は子供たちの一層の成長を促す魅力的な要素を含んでいますが、一方で付け焼き刃の教え・学びから得られるものには限度があります。公教育だけに頼らず、私たち民間が長年にわたり蓄積してきた経験を子供たちの成長に少しでも役立てていきたい、その一心でこれからもこの活動を継続して行きたいと思います。

以下、事業報告のプレゼンテーション資料をご覧頂き、ご感想をいただければ幸いです。

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